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2006年11月11日 (土)

「山中の賊、心中の賊」解説ページ

今週は王陽明の有名な言葉「山中の賊、心中の賊」に挑戦します!
またも失敗談です!本文の内容につきましては土曜日までお待ちください。

その前に予告編として、この解説ページでは本文中に出てくる書籍の紹介と用語の解説(引用)をお届けします。
なお、用語の解説(引用)の一部に筆者の勝手な注釈(解釈)を“(筆者:注1、注2、注3、注4)”として挿入させていただきました。

●書籍の紹介です
・『コーチング・マネジメント』

仕事の出来るビジネスマンの多くは自分が成功したのだから部下も同じようにやればうまくいくと信じ込んでいます。
部下がうまくいかない時は、彼らのやる気や人間性に問題があるのではありません。自分の能力に気がついていない、適性がない、知識が不十分、技術が足りない、または、意欲を高める方法を知らないからです。

マネージャーが優秀なコーチであれば、コーチング・スキルを使って、部下が持っている素質や才能を見つけ出し、その活用方法について話し合ったり、同時に、技術や知識を得るためにどんなことができるかについて話し合うことができるでしょう。「指示」ではなく、会話の質と量によって彼らの自発的な行動を促すことが出来るのです。

このようにコーチングとは、戦略的なコミュニケーション・スキルのひとつであり、コーチとは、会話を広げ、会話を促進する、コミュニケーションのファシリテイターであると言えます。

『コーチング・マネジメント』 伊藤 守(著) ディスカバー社詳しくはこちら「はじめに」より引用

あるクラスコーチが「CTP」で学ぶ内容が1冊の本になっている、と評した本です。でも本を読んだだけでは実践できないことが「CTP」に参加して初めて実践できるようになる。とも言っておられます。

そのとおり!「学んで思わざれば則ち罔し」本を読んだだけでは実戦はできません。
コーチングは奥が深いのです。
でも、コーチになろう、コーチングを学んでみよう!?と思わせる1冊です。

・『質問思考の技術』

だれの責任、という言葉は「批判者」のもの。なにに対する責任、という言葉は「学習者」のもの。そこには雲泥の差がある。だれの責任かという質問は、他の選択肢や解決策を見つけるのを妨げてしまう。「批判者」になって責任をとらせる人を探しはじめたら、問題を片付けるのは困難だ。批判は人を無力にする。一方、なにに対して責任をもつべきかという質問では、有益な行動を進んでやってみようという気になる。他の選択肢を作りだし、状況を改善する自由がある

『質問思考の技術』 マリリーG.アダムス(著)ディスカバー社 詳しくはこちら「本文」より引用

ベンという主人公、アンサーマンが職場でも家庭でも行き詰り、ジョセフというコーチから自分自身にたいして学習者の質問をする思考の枠組みを教わり危機を脱する。という「ザ・ゴール」を真似たストーリですが、批判者の質問、学習者の質問が具体的に書かれており、コーチの多くが推薦する図書の1冊です。

●用語の解説です
・「心即理」と「性即理」について
(筆者:注1.「大学」の明徳についての説明です)

心は五行(木、火、土、金、水)でいえば火に属するものであって、光明、すなわち明るく輝くのが本来の姿である。心は性と情の統一体に他ならぬ。性とは具体的には仁・義・礼・智・信の五常、情はその発現としての惻隠(そくいん。あわれみ)・羞悪(しゅうお。はじ)・辞譲(じじょう。へりくだり)・是非(ぜひ。けじめ)、に他ならず、天より受けた性というこの「光明燦爛(さんらん。ひかりかがやくさま)たるもの」それが心に内在していることによって、心は明徳を持つのである。

(筆者:注2.朱子の「明徳を明らかにする」の説明です)

朱子が「性即理」、性がすなわち理だというのは、人間の心に衆理が具有されていること、それがすなわち性であり、明徳であるけれども理(性)は気による妨害を受ける。倫理学的にいえば人欲の妨害を受ける。輝かしい理・性が、気・人欲の膜に蔽われて、そのために不透明でぼんやりとしていることの形容がすなわち「昏」(こん)であるが、本質的に明るさ輝かしさが失われたわけではないから、何らかの機会に必ずその輝きをもらす(「情」の面に発する)ことがある。そのわずかに発した光明を手がかりとして、ぐんぐんたぐってゆき。その本来の明るい輝き、つまり最初の明徳に復帰する、初めに復する。それが学問というものの基礎構造なのである。

(筆者:注3.「大学」の明徳を明らかにするについての朱子と王陽明の主張の違いです)

この朱子の性即理の哲学においては明徳は「心=性+情」の性(心の本質)の部分にかかわるのであるが、陽明の心即理、心がすなわち理だというのは、性・情不分で本質=現象なるごとき心――これが良知である――をそのまままるごと明徳とするのだ、ということである(したがって明明徳は致良知)。(筆者:注4.王陽明の「明徳を明らかにするとは良知を致(きわ)める、つまり天理をさとること」)。すなわち陽明の立場では、情をも含めたものとしての心について明徳が言われている。情が極端に流れたものを人欲とするならば、ある意味では人欲の肯定にまで進まざるを得ないような、そういう構造になっているのである。

『大学・中庸』 島田虔次(著) 中国古典選6 朝日文庫詳しくはこちらより引用

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