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2007年4月 5日 (木)

「君子固窮」解説ページ

07031802_3画像は雪割草です。
秋田の友人からの贈物です。

今週は、先週の記事を書いた後に気付いたこと、すなわち先週の「暴虎馮河」(ぼうこひょうが)という記事を書きながら、「なんともならない」状態に対して、
●confront(コンフロント。直面する)して脱出する。
●なんともならない状態、現状を楽しんで飛躍の機会を待つ。
●自己実現の旅に出たところであり、様々な困難に遭遇するのは当然のこと!?である。

という気付きを得た後に、さらに気付いたことを「論語」の章の言葉とともにお送りします。

そこで今日は、週末に投稿する本文記事の予告編として、「論語」の章の読み下し文とその解説を『論語』 吉川幸次郎(著) 朝日文庫 中国古典選4 「衛霊公(えいれいこう)」篇の中から引用しながらご紹介します。

(ちん)に在(あ)りて糧(りょう)を絶(た)つ。従者病んで能(よ)く興(た)つこと莫(な)し。子路(しろ)(いか)って見(まみ)えて曰(い)わく、君子(くんし)も亦(ま)た窮(きゅう)すること有る乎(か)。子曰わく、君子固(もと)より窮す。小人(しょうじん)窮すれば、斯(ここ)に濫(らん)

(えい)の国を立ち去った孔子は、黄河を渡って東南に行き、小国の曹(そう)に行ったが、受付けられなかった。それで、西南して宋(そう)へ行き、そこで匡(きょう)の法難に遭い、更に西南して陳(ちん)の国へ入った。ところが陳は呉(ご)の侵略を受けて飢饉であったため、食糧を絶たねばならなかった。
という説と、
南方の大国の楚(そ)が、孔子を招聘(しょうへい)しようとする意向があるのを、陳および蔡(さい)が聞き知り、孔子の任用によって楚が更に強大となることを懼れ、孔子の楚への旅行を阻止するため、軍隊を出して包囲した。そのために食糧を絶たれたのだ。という「史記」の説明がある。

何にしても孔子の生涯における危機の1つであった。孔子に付き従う弟子たちは病み疲れ、立ち上がることさえできなかった。
最も腹を立てたのは気の早い子路であり、膨れ面で孔子の前へ出て言った、「君子にもまた困窮ということがありうるのですか!?」
孔子は答えた。

「君子といえども、もとより困窮するときがある。ただ小人と違うところは、小人は困窮すればすぐ過度の行為、つまり乱暴、自暴自棄に陥るが、君子はそうでない。
説明的に言えばそうなるであろうところを、孔子の言葉は、より簡潔に、より含蓄深く言う、「君子固より窮す。小人窮すれば斯に濫す」と。

<「君子も亦た窮すること有る乎」解説ページ 附録>

●「君子固窮」の4字は、「君子固より窮す」、と読むのが普通の説ですが、新注には一説として、其(そ)の窮(きゅう)を固守(こしゅ)す、「窮を固(まも)る」と読む説もあり、陶淵明(とうえんめい)の詩、「飲酒20首」の中にも「窮を固(まも)る」と読んだ方が良く通じるものがあります。

●匡(きょう)の法難とは、衛の国の邑(むら)、鄭(てい)の国の邑(むら)、宋(そう)の国の邑(むら)、と諸説あって特定し難いのですが、衛(えい)の国王、すなわち霊公(れいこう)に失望した孔子が、衛を去って、陳(ちん)におもむく途中、匡という邑で起こった事件。

その原因は陽虎(ようこ)という魯(ろ)の大将が、侵略軍を率いて、匡の土地に入り、乱暴をはたらいた。
その陽虎に孔子の容貌が似ていたことと、陽虎の侵略に従軍した願剋(がんこく)という弟子が、孔子の馬車の馭者(ぎょしゃ)として匡の地に着いた。
そのため土地の人々は、またもや陽虎がやって来たと誤認し、兵器を持って孔子を取り囲んだ。

とんでもない誤解で、孔子は命の危険にさらされたというときのことです。

●「君子にもまた困窮ということがありうるのですか!?」と、いう子路の質問の裏には、「先生の平生の教えでは、善意は必ず善意を持って報いられるというのに、今の状態はそれに反している」という言外の言葉、すなわち孔子に対する詰問の理由が言葉の裏に隠れています。

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