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2009年1月 8日 (木)

「克己」解説ページ

Hinode0901031 今年の干支は、「己丑(こちゅう。つちのとうし)」。
ならば、今年は己に克とう!
と、新年早々から日の出を求めて散歩に出た。
が、残念!
生憎の曇天で初日の出を拝めず。

 そこで、やっぱり己丑か!
これが今年の干支の暗示するところか?
と思い、その旨を友人に伝えたら、
こちらは正月早々いい天気だったよー
と、とある友はいう。

 ならば、と、2日目に期待して、自宅を後にし、歩くこと30分、
東の空が赤らみ始め、雲が赤みを帯びてきた。

 そして、今か、いまかと待つこと10分。
恥ずかしげに山頂の間から太陽が顔を見せた。

 その光景が気に入り、翌日はデジカメを持って散歩に出た。

 しかし、その後は己に負けて朝の散歩は中断。

 いわゆる、3日坊主というやつ。

 で、今年最初の記事は、「克己復礼」。

 早速、その章を『論語・』 吉川幸次郎(著) 中国古典選4 朝日文庫の「顔淵第十二」から、引用を主に訓読(読下し文)とその現代訳、ならびに吉川博士の解説を読みやすく、わかりやすい形に加工してお届けします。 「長文ご注意 !!!」

 まずは、訓読、すなわち読下し文です。

顔淵(がんえん)、仁(じん)を問(と)う。
(し)、曰(いわ)く、
(おのれ)に克(か)ちて礼(れい)に復(かえ)るを仁(じん)と為(な)す。
一日(いちじつ)己に克(か)ちて礼に復(かえ)れば、天下(てんか)仁に帰(き)す。
仁を為(な)すは己に由(よ)る、而(しこう)して人(ひと)に由(よ)らんや。
顔淵(がんえん)(いわ)く、
(こ)う其(そ)の目(もく)を問う。
(し)、曰(いわ)く、
礼に非(あら)ざれば視(み)ること勿(なか)れ。礼に非ざれば聴(き)くこと勿れ。礼に非ざれば言うこと勿れ。礼に非ざれば動くこと勿れ。
顔淵(がんえん)(いわ)く、、
回(かい)不敏(ふびん)なりと雖(いえど)も、請(こ)う斯(こ)の語(ご)を事(こと)とせん。

 次に、その現代訳です。

弟子の顔淵(顔回がんかい)が仁について問うた。
孔子の答え。
自分の欲望にうち勝って、礼に復帰すること。それが仁である。
一日だけでも克己復礼を実践するならば、世界中がその人の愛になびきよるであろう。
愛の実践は、自己自身から出発する。他人に頼るものではない。
顔淵がさらに問うた。
それを実践するのに重要な徳目をお聞かせください、と。
孔子が答えた。
礼の法則に外れた「視覚」「聴覚」「言語」「行動」をしないこと。
顔淵が言った。
私、回(顔淵の実名)は至らぬ者ですが、今のお言葉を自分の仕事といたします。

 続いて、吉川博士の解説です。

・この章は「克己復礼」という有名な言葉のもととして有名であり、仁は主体的な、したがって積極的な道徳であるのを説くことを趣旨とする。

ただ、「一日」を条件とし、「天下」を結果とするのが、誇張的に感ぜられるばかりでなく、「礼に非ざれば」云々と、事柄を四つに整頓した説きかたも、ここからあとの下論の諸篇に、しばしば見えるものであるが、これまた教条的にひびく。

・「子曰く、仁遠からんや、我れ仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る」。これは上論述而篇第七の言葉である。同じく仁の道徳の主体性を説くものであるけれども、ここよりもより強いパトスを、かしこには感ずるのは、私の偏見であろうか。

・なお「克己復礼」の四字は、「左伝」の昭公十二年に、孔子が「古(いにしえ)や志(ふみ)有りていう、己に克ちて礼に復るは、仁なりと。信(まこと)に善き哉」といったと見え、もし「左伝」を信ずれば、孔子以前、すでに存在した古語、古くからあることわざ、となる。

 ほぉー、
「一日(いちじつ)己に克(か)ちて礼に復(かえ)れば、天下(てんか)仁に帰(き)す」かー。

 ならば、3日間も早起きして出会う人ごとに
「おめでとうございます!」
と、言葉をかけたオイラの愛に全世界の人がなびきよるか~(笑)

 では、あなたにお伺いします。
今年のあなたは、自分に克って、どんな状態に復りますか?

     
            <「克己」解説ページ 附録>

 本文中の章は次のように、一条ごとに丁寧な解説が付されています。

・「顔淵、仁を問う」、いうまでもなく「仁」は孔子の学園において、人間の最も重要な道徳として意識されたものであるが、この問い方は、前にも述べたように、抽象的である。

・「子曰く、己に克ちて礼に復るを仁と為す」。
宋儒の解釈では、「天理」、すなわち自然法は、つねに善であり、人間もまた天理を賦有するが、衝動的におこる私欲、すなわち宋儒のことばによれば「人欲」によって、人間の中におこる天理が、おおいかくされる。
だから私欲を克服して、天理の表現である礼の法則に復帰するのこそ、人間の道である愛のl道徳だ、というのである。

・「礼に復る」の「礼」は、欲望を圧迫し、縮小するための法則ではなくして、欲望を黄金率的なかたちへ拡大する法則である。
しからば「礼に復る」は、生活の引き下げでなく、生活を引き上げることである。この考えは、宋儒においてさえも、そうであると考えられる。

・「一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す焉」。たいへん強い言葉であるが、同時に、あまりにも理想的な言葉といえるのであり、やはり上論とのあいだの距離を感ずる。

・「仁を為すは己に由る、而して人に由らんや」。
仁は主体的な道徳であり、他人の強制によるものではない、あるいは他人を顧慮してなすものではないという主張である。
ここの「己」の字は、まえの「己に克ちて」の「己」の字と、連関をもつ。自己を批判し、克服することは、まさしく、主体的な行為である。

 吉川博士の解説は以上です。

 では、タイトルのの熟語は?
と、「角川新字源」で検索してみると、

【克己】こっき①自分の欲望にうち勝つ。〔論・顔淵〕「克己復礼為仁」②《俗》商人が商品の値を負ける。同義語として「剋己こっき」と記載されていました。

 また。「パトス」とは?
 「広辞苑」によると、

パトス【Pathosギリシャ】〔哲〕受動・受難を意味する語。事件や他人により人は受難としての情感・激情を内部に持つ。それはエートスのように恒常的ではない代わりに、一瞬のうちに何かを生み出す契機となる。⇔エートス
とありました。

 ちなみに、「新明解国語辞典」には次のように記載されていました。

パトス〔ギ Pathos=揺り動かされた心の状態〕〔哲学で〕理性的・持続的な心の動きに対して、受動的・一時的な心の動き。〔転じて、論理で割り切れない激情(情熱)を指す〕⇒ロゴス・エートス

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