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2009年3月 5日 (木)

「六十化す」Part2

Ranten0902213 画像は秋田の友人からのプレゼントで
蘭展の続きです。

 「S君、昨夜、Y君から電話があってな」
と切り出した私。

 「ほぉー、Y君から。どんな用事やった?」
と、興味深そうに私の顔を覗き込んだS君。

 「んっ、それがな、カチンときたんや」
と、昨夜の気持ちを正直に表現する私。

 「なんでや?」と聞き返すS君。

 「聞きたい?」ともったいぶる私(笑)
「じゃー、教えたぎょおー」と徐(おもむろ)に語り始める私。

「Y君が電話で訳のわからんことを一方的に言うので、
『あんた、それどういうこと?』
『何がいかんの、済んだこと、それともこれからのこと?』
『もっと詳しく教えてー』
『具体的に教えてよ』
と、一つひとつ丁寧に私が聞いていくうちに、
『ともかく電話してー』とY君が言うので、
『相手の都合は?』と、私が聞いたら、
『夜ならいつでも居るやろっ!』
という言葉を残してY君が電話を切ったんや」

「それでカチンときた」
と事の次第を語った私。

 それに対するS君の答え。
「おまえ、何のために何を学びよるんやー」
「何でカチンとくるんや」
「カチンとくる前に、Y君がしまった!やられたー、と後悔するような言い方をせんかい」
「アイツも俺と同じで、主語がないし、それにアイツは……」
と自分の主観的考えや意見、それに客観的事実らしきものも交えて開陳し始めたS君。

 「何のために何を学びよるんやー」というS君の一言に、
「六十にして六十化す」という言葉が私の脳を刺激した。

 それで、『荘子・雑篇』 福永光司(著) 中国古典選16 朝日新聞社の「寓言篇(ぐうげんへん)」に見える「「孔子、行年(こうねん)六十にして六十化(ろくじっか)す」という説話の前半部分を同書から引用した。

 今週は、その続き、後半部分を先週に引き続き、同書からの引用を主に、訓読(読下し文)とその現代訳、ならびに解説を読みやすく、わかりやすい形に加工してお届けします。

 まずは、訓読、すなわち読下し文です。

荘子曰く、
「孔子は之(これ)を謝(しゃ)せり。
(しこう)して其(そ)れ未(いま)だ之を嘗(かつ)て言わず。
孔子云(い)えり。
(そ)れ才を大本(たいほん)に受け、霊を復(ひそ)(伏)めて以(もっ)て生(い)く、と。
鳴りて律(りつ)に当り、言いて法(ほう)に当り、利義(りぎ)前に陳(つら)なるも、
(しか)も好悪(こうお)是非、直(た)だ人の口を服せしむるのみ。
人として乃(な)(仍)お心を以て服して敢(あ)えて忤(さから)わざらしめ、
立ちどころに天下の定(てい)を定(さだ)むるは、已(や)みなんかな、已(や)みなんかな、
(われ)は且(そ)も彼に及ぶを得ざらんか」

 次に、その現代訳です。

恵子(けいし)に反省の色さえないのを見て荘子はいった。
「孔子は世俗の人為人知主義を卒業しているのだ。
だから真理のままに生きて議論の遊戯にうつつをぬかすことはないのだ。
その証拠に孔子にはこんな述懐があるよ。
『人間は生命の機能を道(造化の自然)から与えられたのであるから、この霊妙な本性を内に抱き続けて生きてゆくのだ』と。
ところがきみ(恵子)はどうだ。発言は形式論理の法則どおり、議論はきちんと理屈にかない、利害得失、是非正邪は理路整然として眼前に並べ立てられるが、
きみの議論の主観的な愛憎、是非の価値判断は、ただ単に口先だけで、他人の議論をねじ伏せているにすぎない。
そうではなく、他人を心から服従させ、反逆的な気持ちなどまったく抱かせず、
天下の万人が定論とする相対的な是非を超えた絶対の是(ぜ)を一挙に確立するということになれば、いかんせん、いかんせん、
われわれは彼(孔子)に匹敵しようがないだろうよ」

 続いて、著者(福永氏)の解説です。

・「謝」は去と同義。
・「未だ嘗て言わず」は無言の意。
・「大本」は道をいう。
・「復霊」の「復」は伏の借字
・「霊」は道、すなわち造化の自然から与えられた霊妙な本性。
・「鳴りて律に当る」の「鳴る」は、議論することをいう。
・「利義」は『孟子』(梁恵王篇上など)で強調されている概念。
・「前に陳(つら)ぬ」の「陳」は列と同義。
・「人をして乃(な)お」の「乃(だい)」は仍(じょう)と同じに訓(よ)む。
・「天下の定を定む」の「定」は、万人が定論とする絶対の是(ぜ)を確立する意。
・「已(や)みなんかな、已(や)みなんかな」は、如何(いかん)ともしがたいことを嘆く言葉。
・「彼に及ぶを得ず」の「彼」は孔子をさす。

 おぉー、
なるほどー。

 「カチンとくる前に、Y君がしまった!やられたー、と後悔するような言い方をせんかい」
というS君の言葉を聞いたとき、私の頭の中には次の2つの答えが用意された。

 1. おー、その通り!あんたの言うとおりやっ。
カチンと来るのは三年学んで未だ六十化さず。
ちぃ~っとも進化も進歩してない。三年前と同じや。

 2. えっ、なに?
それは、私に応対辞令を学べということ?
応対辞令なら「孟子」を学べばいいけど、オレは孟子が好かん。性に合わんから『孟子』は真面目に読まん。
それに、オイラは応対辞令を学ぶために三年間を費やしたんとちゃうよっ!

と言おうとしたが、後者の方は口にしなかった。

 なぜなら、コーチングにも応対辞令らしきものがありはするが……。

 前者(1項)に気づいただけでも、「やられたー。参った!」
と、S君に礼をいうに十分であった。

 が、いま、この『荘子』の説話を読めば、
後者は不要!
ということになる。

 なんとならば、「之を謝(しゃ)して、之を言わず」。
すなわち、「世俗の人為人知主義を卒業し、真理のままに生きる」
「カチンときたら、カチンと来た」と表現していいんだ。
何も議論の遊戯にうつつをぬかす必要などさらさらないのである。

 んっ、
そういえば、「アサーティブネスとかアサーション」も使わないのが
本当のアサーティブ」などといっておられた方もいたなー。

 では、あなたにお伺いします。
あなたは、世俗の人為人知主義に拘泥していませんか?

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