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2011年7月15日 (金)

「克伐怨欲」解説ページ

Fukikari11061105 画像は秋田の友人からのプレゼントです。

 「何やっ!? このブログは…。」
「お前の自慢話ばかりやないかっ!」
と、克己さんはのたまう。

 「えっ、私は、私自身の『気づきと体験あれこれ』を書いているだけなんですけどぉー…。」

「60数年間生きてきた私が、いかに未熟で知らないことが多すぎるか、それを私は記しているだけなんですが…」
と怪訝な声で私は答える。

 「いやっ、それはおかしい。違う!」
「どうすれば、多くの人々の問題や悩みを解決することができるのか?」
「人々が求めているもの、知りたいことや、欲しているものは何なのか?」

「それを考えて提供するのが、お前の仕事であり、使命やないか!」
と、克己さんは続ける。

 「えぇっー、それって事実? それとも解釈?」
「それは、克己さんの思い込み、勝手な解釈では!?」
と言いたい気持ち(感情・欲望)をぐっと抑えて、飲み込んだ私は己に克った!? (笑)

 あれっ?
この記事を見た克己さんは…(笑)

 さて、今日は『論語』 吉川幸次郎(著) 中国古典選4 朝日文庫「憲問けんもん第十四」の中からタイトルの語句がある論語の一章を、同書からの引用を主にお届けします。

 ます、訓読です。

こく、伐ばつ、怨えん、欲よく、行おこなわれず、
って仁じんと為すべし。
わく、
って難かたしと為すべし。
じんは則すなわち吾れ知らざる也なり

 次に、その現代役です。

(原憲げんけんが言った)「克(勝ち気)、伐(自慢)、怨(怨み)、欲(欲望)を抑えることができれば、それは仁といえるでしょう」と。
孔子が言った(先生の言葉である)。
「それ(4つの悪徳を抑えること)は難しいことだ」
「そしてそれだけで仁といっていいかどうか、私にはわからない」と。

 続いて、吉川博士の解説です。

・はじめの二句は、孔子以外の人の言葉である。
-古注では、まえの章とつづけて一章とし、原憲の問いのつづきとする。
-新注は独立した一章とするが、原憲の言葉とする点は、同じである。
-徂徠は、章のはじめに脱字があるとし、だれのことばかわからないとする。

・何にしても、問いの言葉は、克、伐、怨、欲、この四つが、その人の行為にない場合は、仁といってよろしいと思いますが、というのである。

-古注に引く馬融の説に、克こくは「好んで人に勝つ」、伐ばつは「自みずから其の功に伐ほこる」、怨えんは「小さき怨みを忌む」、つまらぬことを根にもつ、欲よくは「貪欲」である。

-つまり、強引、自慢、ひねくれ、欲ばり、みな狭量な心から生まれる四つの不道徳である。

 -新注も同じであるが、この四字の一つ一つが、しかく、明確に独立した概念であるかどうかは、疑いを容れる余地がある。

・孔子の答え。それらの不道徳が其の行為にないのは、むつかしいことだといっていい。しかし、それだけで仁であるかどうか、私にはわからない。

 -それだけでは仁ではない、といおうとするのであり、それらの不道徳がないという消極さだけでなく。もっと建設的な積極的なものがあってこそ仁だ、というのであろう。

 -「仁」と「難」とは、音声が近いから、語戯的な要素をも含むかと、尾崎雄二郎君の説。

 う~ん、「克、伐、怨、欲」とは、
「狭量な心から生まれる四つの不道徳」かぁー…。

 では、冒頭の私は?
そして、親切な忠告、アドバイスと心配(心配り)を私に与えてくださった克己さんは…?

 それはさておき、『角川新字源』には何と?

【克伐怨欲】こくばつえんよく 四つの悪徳。克は勝つことをこのむ、伐はほこる、怨はうらむ、欲はむさぼること。〔論・憲問〕「克伐怨欲不行焉、可以為仁矣」

 おっ、この章に関しては、
吉川博士の解説と、さしたる異同(相違)がない!
一件落着! 

 めでたし、めでたしと終えればいいものを、己に負けた私は、つい悪い癖、持ち前の欲が出てしまったぁ~(笑)

 そして、その代償、つまり、時間を浪費して、目の痛みと肩コリという副産物を手に入れてしまった。

 その結果、軟弱な私の意識は、強力な私の無意識に怨みごとの集中砲火を浴びせて戦いを挑むのであったぁ~(笑)

 では、あなたにお伺いします。

 あなたが無意識的に欲した結果、後で怨み言を聞く羽目(事態)に陥るのはどんなことですか?

         <「克伐怨欲」解説ページ  附録>

 30数年前に買い揃えた文庫本、『中国古典選3・4・5』(吉川幸次郎〈著〉 朝日文庫)と、つい5,6年前に、古書店にて手に入れた『角川新字源』を基に、ここ5年間も、このブログ記事を書いてきた。

 そしてしばしば、吉川博士の難解な解説(と思う)自らの頭脳に、
怨み(怨)をいだき、歯ぎしりすることも幾度かあった。

同時に、「グリコ!」を、伐ばつ(ほこり・自慢)にしている自分にも気づいた。

 そこで、もう少し「論語」について知りたい!
そんな己にも克(勝)ちたい!
安心と自己信頼感を手にしたい!

という一心、つまり、欲(欲望)に負けた私は、先週、ついに投資を決意し、急遽、書店に急行し、躬行きゅうこう(自ら行って、自分の目で探して、実際に見て、購入)した。

 その結果、先週は新たなストレスと安心という矛盾する両方を手に入れたことに気づいた。

 そして、今週は!?

その結果は、以下をご覧あれ!(笑)

 まずは、1冊目(『論語』 金谷 治〈訳注〉 岩波文庫) を見て、次のような文言を発見!

*『史記』の引用では、初めに「子思曰」の三字がある。子思ししは前の章と同じ原憲のあざ名。

 んんっ?
「子思しし」は孔子の孫である「伋きゅう」の字あざなでは…?
と思い『角川新字源』にて検索した結果は次の通り。

【原憲】げんけん 孔子のでし。字あざなは子思。清貧に安んじて道を楽しんだ。〔史・仲尼弟子列伝〕

 おぉ~、よかった!
今夜はぐっすり、眠れそう(^^♪

 そして、また1つ賢くなってしまったぁ~♪
どうしよう?(笑)

 さらに、新たに投資したもう1冊(『論語新釈』 宇野哲人 講談社学術文庫)に目をやると、以下のような注目する文言が!

[通釈] <前略> 
仁者じんしゃは正しい道理が心に備そなわって自然に四つのものが起こらないので、制して行なわれないようにするのではない。

[語釈]○行おこなはれざる=制止して行なわれさせないのである。

[解説]この章は仁じんは私わたくしを制するのではないことを見しめしたのである。
<中略>
学者は克伐怨欲不行こくばつえんよくふぎょうと克己復礼こっきふくれいとの間を明察めいさつするならば、その仁を求めるところの工夫くふうが益ますます親切で遺漏いろうがないのである。(程子の説)

 おっ、なるほど!
コントロール、つまり意識して「己に克つ」練習をしている段階では、まだ仁とはいえない。

 意識して、練習して、無意識レベルに達して初めて偉人、否、「為仁」、つまり「克己復礼為仁(己に克って礼に復かえるを仁と為す)」なんだぁ~。

 ところが、オイラは学ぶ者ではあっても、巷間言われる学者ではない!

したがって、「克伐怨欲不行こくばつえんよくふぎょう」と「克己復礼こっきふくれい」との間を明察することなどできない!?(笑)。

 それでも、「不道徳がないという消極さだけでなく、もっと建設的な積極的なものがあってこそ仁だ」という吉川博士の言葉に対しては、これで納得!

 また、尾崎雄二郎博士の説「『仁』と『難』とは、音声が近いから、語戯的な要素をも含むかと」いう説に対しては、

「急行」と「躬行」、それに「偉人」と「為仁いじん」という同じ音読み、「語戯的な要素」、つまり、言葉遊びにも気づいたことであるし…(笑)。

 それに、「時間」という貴重な資源を浪費し、ブログ記事を書いて私が手に入れたものは、目の痛みと肩コリという副産物、そして意識と無意識の闘争であった。

 しかし、これらに対しても、十分に、有り余る収穫、気づきと体験のあれこれがあった~(^^♪
のである。

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