「下学上達」解説ページ
そろそろ、ゴルフを…?
と考えていた矢先に、
同僚から中古のゴルフクラブをもらった。
早速、その夜、友人と一緒に
人生初体験の屋内ゴルフ練習場へ…。
そこで、いざ、ボールを打とうとすると、
インストラクターから私にお呼びが…。
「おっ、個別レッスンか!?」
と私は、勇んで彼の後をついて行く。
さて、そこではどんな練習が…?
というお話の前に、学びの基礎知識について…。
早速、『論語中』 吉川幸次郎(著) 中国古典選4 朝日文庫の「憲問けんもん第十四」 第37章からの引用を主に、始まり、はじまり~♪
まずは、訓読です。
子し曰いわく、
我われを知しる莫なき也夫かな。
子貢しこう曰いわく、
何なん為すれぞ其それ子しを知しる莫なき也や。
子し曰いわく、
天てんを怨うらまず、人ひとを尤とがめず、
下学かがくして上達じょうたつす。
我われを知しる者ものは其それ天てんか。
次に、その現代訳です。
孔子が言った(先生のお言葉である)。
「私のことをわかってくれる人は誰もいない…」。
弟子の子貢が(怪しんで)尋ねた。
「どうして先生の理解者はいない、とおっしゃるのですか?」
孔子が言った(答えた)。
「私は天を怨む気もちも、また人を咎める気もちもない。
ただ私は身近なところから学び、高遠なところを求める(修養に努める)だけなのだ。
そんな私の理解者は、まぁ、天であろうなぁ…」。
続いて、吉川博士の解説の一部です。
・もっとも味わいの深い章の一つである。
・私を理解するものはいない。
莫我知也夫、「也夫」の二字が、嘆息の深さを示している。その言葉を聞いた子貢がいった。
どうしてそうおっしゃるのですか。どうしてあなたの理解者がいないとおっしゃるのですか。何ん為すれぞ其れ子を知る莫なきや、孔子の、我を知る莫なき也夫かな、という言葉をもとにして、そのいいかたを怪しんだ、とするほうがよろしいであろう。
旧訓はおおむね、「何ん為れぞ其れ子を知ること莫からん」と読む。
それならば、先生のおっしゃるようなことはありません、だれだって先生のことを知っていますよ、
孔子のいった言葉の内容をすぐ反発した語気になるが、そうではあるまい。孔子はいった、
私がこうして不遇なのは、天意でもあろう。
しかし、天を怨む気もちはない。また同じ時代の人間の罪でもあろう。
しかし人間をとがめる気もちもない。ただ私は、低いところから学問をはじめて、より高次なものへの到達を求めるだけである。
孔安国曰わく、「下しも、人事を学び、上かみ、天命を知るなり」。
こうした私の態度を理解してくれるのは、天であろう。
人間にはわからないかも知れぬという意味が、うらにある。<後略>
はい、
吉川博士のおっしゃる通り、
私にも理解できませんでした!(笑)
というのは、冒頭のお話。
すなわち、ゴルフの練習場へ行って、
そこで歩き方(体重の乗せ方)の練習をしたときのお話。
力強いボールを打つ(上達する)ためには、
それを支える強靭な土台、すなわち下半身が大切!
ということで、人生初のゴルフ練習場では
初日に下学ならぬ、下半身の大切さを学ぶことに…。
そこで、あなたにお尋ねします。
あなたが今、修養中のもの、それは何から始まりました?
ちなみに、『角川新字源』によれば、【修養】しゅうよう とは、
「道を修め徳を養い、人格の完成に努める。」と。
また、タイトルの熟語ほかを同書にて検索した結果は以下の通り。
【下学(學)上達】かがくじょうたつ 手近かなところから学び始め、しだいに高度な学理に達する。〔論・憲問〕
【不怨天不尤人】てんをうらまずひとをとがめず 自分が世に入れられなくても、天をうらまず、他人をとがめず、ますます修養につとめる〔論・憲問〕
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