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2015年1月11日 (日)

「曲肱之楽(きょくこうのたのしみ)」解説ページ

1410305 画像は秋田の友人からのプレゼントです。

 半世紀(50年)程も
昔の話。

一悶着あった高校も、
無事、卒業!?

そして、就職。
いよいよ社会人に!

という最終段階近くになって、
私が通っていた高校から突然、呼び出しが…。

「今頃になって、何を!?」と思いながらも、 

 私は愛用の通学用自転車に跨り、
アップダウンが続く未舗装と舗装道を
4里(12km)程も走って学校へと…。

<長文 ご注意!!!>

 さて、校門をくぐり、職員室に入った私は、
担任の教諭から、思いもかけない言葉を聞く羽目に。

「就職予定先の企業が倒産した。
でも、心配するな。

あの程度の企業なら、
他にいくらでもあるから。

学校が責任をもって
お前の就職の斡旋をするから。」

という言葉を耳にした瞬間、私の口からは、
以前から抱いていた当該高校に対する不信感が噴出した。

「その必要はありません!
自分で探しますから」

と私は言い残して、自宅に帰り、
その3日後には、バスと汽車・電車を乗り継ぎ、
大阪の叔父の所に身を寄せることに…。

 さて、ここからが、
私の貧乏生活の始まり。

 先ずは、姉の上司の紹介で、
無事、とある企業の面接を受けて
採用、就職することができたものの、

叔父の住まいは、
6畳一間のアパートの一室。

叔父夫婦と娘、それに私の4人が暮すには
余りにも狭く、また居候の身では…。

などと、今を去ること半世紀も前の昔を振り返り、
私の貧乏生活を語り始めたものの…。

暫し、中断!

 先ずは、『論語』 吉川幸次郎(著) 中国古典選3 朝日文庫
からの引用を主に始まる、以下の「述而じゅつじ第七」 第15章を
とくとご覧あれ~♪

 最初に、訓読(読下し文)を。

わく、
疏食そしを飯らい水みずを飲み、
ひじを曲げて之れを枕まくらとす。
たのしみ亦た其の中うちに在り。
不義ふぎにして富とみつ貴とうときは、
われに於いて浮雲ふうんの如ごとし。

 次に、現代訳を。

孔子が言った(先生がおっしゃいました)。
「粗末な食事をして水を飲み、
腕を曲げて枕として寝る。
そんな生活の中にも道を行なう楽しみがある。
道にはずれた行いによって富と名声を得るのは、
私にとっては浮雲のように軽いものであり、無縁のものだ」。

 続いて吉川博士の解説の、
ごく一部を。

最初の飯の字は「飯らい」と訓ぜられるように、動詞である。

つぎの「疏食」の二字には、両説がある。

疏の字は草かんむりの蔬の字と同じく、
「疏食とは菜食なり」、つまり野菜ばかりの食事と
するのが古注であり、「そしょく」と音が与えられて
いる。

その系統のテキストでは、本文もぶっつけに
「蔬食」につくるものさえある。

それに対し新注は、食の字を「し」と発音させて、
その狭義の意味である「こめ」の意味とし、
疏食そしとは、粗末な穀物でつくった飯であるとする。

つまり古注によれば、おかずについていったので
あり、新注によれば、飯そのものについていった
ことになる。

<中略>

次の「水を飲む」というのも、もとより食事の簡素を
いうが、水すいの字は日本語のミズのように、

必ずしも冷水のみを意味せず、過熱した水、
すなわち日本語の湯、白湯さゆも、水すいであること、
現代中国語と同じであろう。

次の「肱を曲げて之れを枕とす」とは、
食事以外の生活も、簡素であることをいうが、

こうの字を、「ひじ」と読みならわして来たのは、
一種の意訳であるかも知れない。

なんとなれば、日本語の「ひじ」、すなわち腕の
中ほどの屈折する関節を意味する漢字は、
厳密には肘ちゅうであって、肱こうでない。

こうは腕ぜんたいを意味するからである。

どちらにしても事柄の結果は同じだが、
曲肱の二字は、直訳すれば、「肱うでを曲げて」となる
であろう。

さて、そうした貧乏な、簡素な生活のなかにも、
楽しみはやはりその中に内在する。
<中略>
「楽しみ亦た其の中に在り矣」と亦の字を加え、
こうした生活の中にも、楽しみはおのずからあると、
ことに含蓄あるやわらかないい方である。

さて孔子の言葉はなおつづく。

それに反し、「不義にして、富み且つ貴き」こと、
「不義」とは、われわれの言葉でいえば、
「不正」である。

不正な方法で得た経済的なまたは社会的な優位、
それは反省なき人にとっては、楽しいであろうが、
この私にとっては、浮雲のようなものである。

<後略>

 う~ん、
この章についての吉川博士の解説は、大幅に割愛したものの、
長い上に、「語釈」、すなわち、語句の解説に注力している
嫌いがある。

なのに、私はこれらの語句の意味が、
角川新字源』ではどのように?

と、タイトル他の語句を
同書(『角川新字源』)にて検索してみることに…。

【曲肱之楽】きょくこうのたのしみ 貧しいながらも道を行なう楽しみ。孔子のでしの顔回が貧乏な生活をし、ひじを曲げてまくらとした故事。
〔論・述而〕「曲肱而枕之、楽亦在其中矣」

【疏食】そし ①そまつな食物。粗飯。粗食。
〔礼・大喪記〕「士疏食水飲」
②野菜と穀物。蔬菜そさいと穀食。
〔淮南・主術〕「秋畜疏食」

【不義】ふぎ ①人の守るべき道にはずれていること。
②自分の上役人や先生を殺す罪。十悪の一つ。

【浮雲】ふうん ①うきぐも。空にうかんでいる雲。
②自分にまったく関係のない物事のたとえ。
一説に、存在性のうすいたとえ。また、軽いもののたとえ。〔論・述而〕「不義而富且貴、於我如浮雲」

 あれっ、
角川新字源』には、「曲肱之楽きょくこうのたのしみ」とは、
孔子のことではなくて、弟子の顔回のことになっている!?

確かに、顔回は、「簞瓢陋巷たんぴょうこうろうに在っても
の楽しみを改めず」と「雍也ようや第六 第11章」
詳しくはこちら 「一簞食一瓢飲」解説ページ)にはあるが…。

その出典、すなわち「曲肱而枕之(ひじをまげてこれをまくらとす)
楽亦在其中矣(たのしみまたそのうちにあり)」という語句は、
論語の中にはこの章以外に見当たらず、
辞書(『角川新字源』)の誤植かな?

それとも…?

と、私は手元に有る「論語」と名のつく
何冊かの本を引っ張り出して見てみるものの…。

この語句、すなわち「曲肱之楽きょくこうのたのしみ」とは、
顔回のことであるとも、孔子が顔回を讃えた故事である
という記載にも遭遇できず、残念!

 ちなみに、『論語新釈』 宇野哲人(著) 講談社学術文庫を
見れば、以下のような解説はあるものの、顔回という文字は
見当たらない。

[解説] この章は孔子の心には困窮のうちにも
真の楽しみのあることを述べたのである。

孔子は貧乏な生活を楽しむのではない。
貧乏な生活をしても心の楽しみを失わないので
ある。

又富貴を軽んずるのではない。
義にかなった富貴ならば喜んで受けるのである。
軽んずるのは不義の富貴である。

 また、『論語現代に生きる中国の知恵』 講談社現代新書 貝塚茂樹(著)
を見れば、以下のような文言が。

好きな学問に没頭していれば、貧しい生活でも
ある程度忘れることもできることをいったのです。

 さらに、『朝の論語』 明徳出版 安岡正篤(述)には
次のような言葉も。

昔から人間は貧乏に弱い。
しかし実は貧乏即失意なのです。

本意別に存すれば案外貧乏は問題でない
のですが……。

 さて、冒頭の続き。

 半世紀を過ぎた今でも、私の記憶に残っている1つの言葉で、
私の行動の原点となったのが、叔父の妻、すなわち、叔母の
以下の発言。

「大阪で生活しようと思えば大変よっ!

家具も電気製品も、一から揃えようと思えば、
お金がいくらあっても足りない。

ましてや、大阪で自分の家を持とうとなれば、
気が遠くなる話よ…。」

この叔母の一言で、
私は1日も早く自立を!

と考えて、叔父の許を離れ、
下宿先を探す決意を!

 ちなみに、半世紀も前の私には、金も地位も名誉も、
また恐いものもなく、ナイナイ尽くしの身ではあったが、
若さと活力だけは有り余っていた。

 ところが、そんな私に、
その下宿先の環境が相応しくない!

という周囲(職場の上司と姉)の声が。

その忠告を受け入れた私は、
3か月後にはより良い住まいを求めて、
再び転居することに…。

 そして、その転居先も
半年後の春には!

と興に乗ったところで残念。
紙幅を使い果たしてしまい、再び中断!

この続きは
次回のお楽しみです。

 では、あなたにお伺いします。

あなたが若かりし頃、すなわち、あなたの青春時代!
その頃のあなたには、何が有り余って、何が不足していました?

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