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2016年9月18日 (日)

「従心(じゅうしん)」解説ページ

1604133 画像は秋田の友人からの
プレゼントです。

 さて、久しぶりにお会したSさんが、
私に次のような告白(嘆き節)を。

「70歳になった途端に、
スコアが悪うなってしもうてなぁー、
ゴルフにならんのよっ。

この間も、100を切るのが
やっとでなぁ…」と、照れ笑いを
浮かべながら、その顚末を話し始める。

 そして後日(次のラウンド日に)、
そのSさんが、パートナーの一人、
Kさんに告げた内容が、以下の通り。

「Kさん、わし、もぉー、
ゴルフ出来んようになるかも知れん。

というのも、70(歳)になってから急に、
膝や肘、肩の関節が疼き出してなぁ…。

ほやから、一緒にゴルフをするのも、
そう長ごうはないかもしれん…。」
と、真顔でおっしゃる。

そのSさんはと言えば、長身にて、
背筋を伸ばして颯爽さっそうと歩く姿は
矍鑠かくしゃくたるもの。

傍目から見れば、お元気そうで、
「この人、おいくつ?」
と、思わず、尋ねたくなるが…。

 んっ、
そういえば!

10年前程に、同級生のS君が、
私に以下のような話(忠告)をした記憶が。

「何をするにしても、
60(歳)台が一番いいときやからな。

今のうち(60歳台)に、一所懸命、
遊んどかんと損よっ(後悔するぞ)!」と…。

彼、S君は何を根拠に、
私にこのような話・忠告をしたのであろうか?

その時、私はその理由を、
尋ねもしなかった。

が、いま、ここで考えれば、

このS君の言葉と、冒頭のSさんの嘆きは、
妙(微妙?)に、一致する(つながる)!?

一見、無関係のようなこの2つの話が、
どのように一致するのかと言えば!

という話(こじつけ?)は、
後段のお楽しみ。

 先ずは、『論語』 吉川幸次郎(著) 中国古典選3 
朝日文庫からの引用を主に始まる、以下の一章
(「為政いせい第二」 第4章)を篤とくとご覧あれ~♪

 最初に、訓読(読下し文)を。

わく、
れ十有五じゅうゆうごにして学がくに志こころざす。
三十さんじゅうにして立つ。
四十しじゅうにして惑まどわず。
五十ごじゅうにして天命てんめいを知る。
六十ろくじゅうにして耳みみしたごう。
七十しちじゅうにして心こころの欲ほっする所ところに従したがって、
のりを踰えず。

 次に、現代訳を。

孔子が言った(先生がおっしゃいました)。
私は15歳で学問に志し、
30歳でその基礎が確立した(でき上がった)。
40歳で迷わ(惑わ)なくなり
50歳で使命(天命)を知った。
60歳で人の意見や考えが聞けるようになり、
70歳になって心のままに振る舞っても、
人としての道を踏み外すことがなくなった。

 続いて吉川博士の解説を。

・一読してあきらかなように、
孔子の自叙伝である。

・吾十有五而志于学、の吾は、
いうまでもなく一人称の主格であって、

「論語」では、すでに見て来た部分でも、
吾日三省吾身、あるいは吾必謂之学矣の
ように、主格、もしくは所有格である場合には、吾が使われている。

・十有五、の有は、又の字の音、
つまりyouの去声に読み、意味も又の字と
同じいとされる。

つまり十有五とは、十と五、であり、
我が国の古語でいえば、
十あまり五つ、である。

・さて、十有五にして学に志し、とは、
十五歳の時に、決心をした、

その決心は、学問をしようとすること
であった。というのであるが、  

<中略>

十五になって、学問をすべく決心したと
いうのは、高度の学問に向かっての
意志を、決定した、ということでなければ
ならない。

それは恐らく、文化によって
人間に貢献するということであった
であろう。

・三十にして立つ。

三十歳のときに、そうした学問の、
基礎ができ上がった。

・四十にして惑わず。

自己の学問に対して、自信を得、
自己の向かっている方向が、
人間の生活として、妥当なものである
ことを、確信するようになった。

・五十にして天命を知る。

かく文化のために努力することが、
天から自己に与えられた使命であること、

ないしは、かく文化のために努力せざるを
得ないことが、天から人間に与えられた
運命であることを、感知しうるに至った。

そういうことであると、私は思う。

<中略>

・六十にして耳順したごう。もくは耳順なろう。

これは、難解な言葉であるが、
自己と異なる説を聞いても、
反撥を感じなくなった。

つまりそれらの説にも、
それぞれ存在理由があることを
感得すようになった。

さらにいいかえれば、
人間の生活の多様性を認識し、
むやみに反撥しないだけの、
心の余裕を得た、ということだと、
私は解する。

・さいごの、七十にして心の欲する所に
従って矩のりを踰えず、とは、

自己の行動に、真の自由を得たこと
であって、欲望のままに動いても、
人間の法則を踰えないという境地に
達した、ということで、これはあるに
相違ない。

<後略>

 う~ん、
孔子は70歳になって
「自己の行動に、真の自由を得た」
という(吉川博士はおっしゃる)。

ところが、冒頭のSさんと、古い友人のS君は、
暗に、以下のような主張を。

「70歳になったら、
身体のあちこちに支障が現れて、
行動が束縛されるようになる」。

すなわち、身体が思いのままに
動かなくなる。

つまり、自己の行動に、
自由がきかなくなる。

言葉を換えれば、70歳にもなれば、
「自由な行動の限界を知ることになる。
ブレーキが必要になる。」と、
暗に、2人は述べている。

 で、従心じゅうしんを迎えた今、ここで、
我とわが身を振り返った時、
両者(SさんとS君)のおっしゃるとおり!

耳順じじゅん、すなわち60歳台と
70歳との違いは明白!

特に、私の場合は、古傷の痛みに、
手術痕の痛みも加わり、

あちらこちらの関節は
私の行動や意図に逆らうかのように、
「ギ―・ギシッ、ペキ・パキ・ベキ、ガクッ」と
都度(使用する度に)、悲鳴を上げる。

その悲鳴(音)を聞いたり、
痛みを覚える都度、思う(感じる)。

「オレも歳をとったなぁー。
無理がきかなくなった。
限界かなぁ…。」などと。

 それでも、
「七十にして七十化す」!

すなわち、「七十歳になったら
七十歳になっただけの変化・進化をしよう!」と、
耳順じじゅんのとき(60歳台)に決め(思い続け)ていた。

で、「従心じゅしん」、
すなわち、70歳になったいま、ここでも、

・90を切る夢(目標)
・より遠くへ(1ヤードでも先へ)という夢(欲?)

それに、「わしがわしがの我」を
捨て切れずにいる。

というのも、私が私であるためには、
いくつになっても、我を張り、
夢を追い続ける必要がある。

それが、私にとっては必要条件の1つであり、
生き甲斐でもあるが…。

 孔子は、「心の欲するとこに従って
のりを踰えず」と言う。

そして吉川博士は、この意味(現代訳)を、
「自己の行動に、真の自由を得た」とおっしゃる。

が、従心じゅうしん、すなわち、70歳になった私に対して、
私の身体と財布は、私の心に対して次のような問い、
メッセージ(忠告)やら、リクエストまで突きつける。

「馬鹿が、いい加減にせぇー!

良い歳をして、いつまでも
若いつもりでいやがってぇー…。

ちょっとは、わしら(身体と財布)の
身にもなってみぃー。

そろそろ、限界や。
この辺が潮時や無いか!?」

などと、自制を要求する。

 ところが、私の天命は、、
「行けるところまで行け!」

すなわち、「自由に・思うがままに行動せよ。」であり、

「行けなくなった所、そこが終点。」
すなわち、「ジ・エンド。終り。」である。

その終点に向かって、この先、十年も、
また自由に・思うがままに…。

 では、あなたにお伺いします。

あなたが、「真の自由を得る」ために必要なもの、
その1つを挙げるとすれば、それは一体何でしょう!?

<「従心じゅうしん」解説ページ 附録>

 この論語の一章(「為政いせい第二」 第4章)に関する
熟語は? と、『角川新字源』を見た結果は、
以下の通り。

・【志学】しがく ①学問に志す。
〔論・為政〕「吾十有五而志于学
②十五歳のこと。

・【而立】じりつ/じりゅう 三十歳をいう。 「三十而立」

・【不惑】ふわく まどわない。
「論語」為政編の「四十而不しじゅうにしてまどわず」から、
のちには四十歳の別称となった。

・【知命】ちめい ①天命を知る。天運をさとる。
天のあたえた使命を自覚する。

②五十歳の称。孔子が、五十にして天命を知る、
と言ったことによる。〔論・為政〕

・【耳順】じじゅん ①聞いたことがすらすら理解できる。
一説に、すなおに聞き入れられる。
②六十歳のこと。〔論・為政〕「六十而耳順」

・【従心】じゅうしん/しょうしん ①思うがままにふるまう。
同義語:縦心しょうしん

②七十歳の別名。
〔論・為政〕「七十而従心所レ一欲、不矩」

 ちなみに、「耳順」の文字をご覧になった
多くの方々は、以下のようにおっしゃる。

まず、「なんて読むんですか?」と。

あるいは、「みみじゅんとは、どんな意味ですか?」
などと、重箱読みをして、私に尋ねる。

このような質問に接した時、
私は思う。

あれっ、
「このような人(教養人)が…。」

う~ん、
「論語」とは無縁の人々が
多くなった証拠の1つかなぁ…。

今の世の中には、
「論語」は不要な存在なのかな?

などと、と思いつつも、吉川博士による語句の解説と
角川新字源』に記載の語句の意味とは、
どのように一致・相違するのかな?

と、他の語句についても検索してみた結果は
以下のとおり。

・【有】ユウ/ウ 意味⑪ また。そのうえさらに。「十有五」。同義語:又ゆう(もつ、ある、また)。

・【天命】てんめい 天の命令。天が人に授けた本性や
賢愚や吉凶など。〔論・為政〕「五十而知天命

②運命。③自然の寿命。同義語:天寿。

【天命之謂性】てんめいこれをせいという 天が人に
このようであれと命じあたえたものを性という。

・【不矩】のりをこえず 規則にはずれない。道徳が身についていて、思うままの行動が自然と道にかなう。
〔論・為政〕「七十而従心所レ一欲、不矩」

 う~ん、
私の心には、
「人の道を踏み外すな。」という規則はあっても、
私の身体と財布には、ルール・規則はない!

ならば、心のままに振る舞っても、
「規則に外れない」ことになるが…。

 あぁ~、疲れた!
ご覧になる方も、書く方も。

で、ここで終わりにすればいいものを、
さらに、おまけ(お付き合いを!)。

「耳順じじゅん」と「従心しょうしん」、すなわち、「順」と「従」は、
おなじ「したがう」であっても、どのような違いが?

と、『角川新字源』の「同訓意義」にて「したがう」を
見てみれば…。

【順】じゅん 「逆」の対。何事でもそのとおりにして、
さからわないこと。
〔柳宗元・文〕「能順木之天

【従】しょう/じゅう 相手のとおりに従う。つき従い供をする。
〔論・為政〕「七十而従心所レ一欲、不矩」

 おっ、
60歳台、すなわち耳順じじゅんとは、
「逆らわないこと」。

それで、60歳台に、
私は我慢・辛抱をした。

そして、従心じゅうしんのいま、ここ、
70歳台は、「相手に従う」ことだというが…。

この相手とは、私の心なのか、
身体なのか、それとも財布なのか…?

あるいは、自分自身なのか、
それとも、周りの人々や環境なのか?

いや、いや、70歳にもなれば自分自身、
すなわち自分の心に、正直に従う。

つまり、身体も財布も、
私の心に「つき従い供をする」!

などと、勝手な論理や屁理屈を並べ立てて、
自己の正当性を主張すれば、

身体も財布も、また周りの人々も反発して、
反旗を翻す!?

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