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2017年11月 5日 (日)

「八佾(はちいつ)」解説ページ

Dsc02049 画像は秋田の友人からの
プレゼントです。

 さて、35年程も昔の話。

オーナー社長のTさんが
私に以下のようなことをおっしゃる。

「専務がな、わしの真似をして、
自宅に社員を呼んで(招いて)

自分の誕生日を祝いよるんぞ。
お前、どう思う?」と。

う~ん、
当時の私に、「お前、どう思う?」と
上司の所業を尋ねられても…。

仮に、当時の同僚で自他ともに認める風見鶏の
Mさんならば、以下のように答えた(であろうか)?

「専務がそんなことをするのは、
僭越至極で、僭上沙汰です!」と。

それとも…?

などという話は
後段のお楽しみ。

 先ずは、『論語』 吉川幸次郎(著) 中国古典選3 
朝日文庫からの引用を主に始まる、以下の一章、
八佾はちいつ第三の第1章を篤とくと、ご覧あれ~。

 最初に、訓読(読下し文)を。

孔子こうし、季氏きしを謂わく、
八佾はちいつを庭にわに舞わす。
れをしも忍しのぶ可くんば、
いずれをか忍しのぶ可かざらん。

 次に、現代訳を。

孔子が、家老の季孫氏きそんしを批判して言った。

「季孫氏は八佾はちいつの舞を
自らの廟の庭で舞まわせている。

この非礼を許して我慢することができるというならば、
容忍(ようにん。許して我慢すること。)できないものなど
何もない!」と。

 続いて、吉川博士の解説を。

・孔子、季氏を謂わく、の季氏とは、
当時魯のくにの実権者であった
季孫氏であって、孔子のころの当主は、

季桓子きかんし、実名では季孫斯きそんし
であった。

・また謂の字は、曰えつ、云うん、言げんなど
と、子音を似通わせる同系列の語である
が、同じ「いう」でも、最も重い「いう」である。

つまり批評の意味を含めた発言が
謂であって、孔子謂季氏とは、

季氏の家の僣上沙汰を、
以下の如く批評したというのである。

<中略>

・さて批評の内容は、季氏は、八佾の舞、
それは天子の特権である舞を、

自分の家の中庭、というのは、その祖先の
霊魂を祀った神社の中庭であるが、
そこで舞わせている。

・八佾とは八列ということであって、
八八六十四人の方形の群舞であり、

それは天子の祭祀の場合にのみ
許容される。

諸侯は六六三十六人、
卿大夫は四四十六人、士は二二が四人と、

身分によって区別があるとするのが、
礼の本来の規定であり、

季氏の身分は、卿大夫であるから、
四四十六人の舞で祖先を祭るべきなのに、

身分不相応にも、天子のまねをして、
六十四人の八佾の舞を舞わせている。

・この秩序の破壊を、わたくしは座視するに
忍びない。是れをしも忍ぶ可くんば、

つまりこれが座視できるというならば、
いずれをか忍ぶ可かざらん、世の中に
辛抱できないということは、何があるか。

辛抱できないという事柄は、なくなるだろう、
という孔子の怒りの言葉である。

・階級の存在による秩序こそ、
人間を平和にするもであって、

それぞれの階級は、それぞれに生活の
表現を持つべきであり、それが礼である。

その秩序が破壊されるのは、悪である、
というのが孔子の考えであった。

<後略>

 う~ん、
「八佾はちいつとは、
八列ということであって、

8人×8列=64人の方形の群舞であり、
それは天子の祭祀の場合にのみ許容される。」

と吉川博士はおっしゃる。

 じゃあ、
いつ=列?

と、『角川新字源』にて検索してみた
結果は以下の通り。

【佾】イツ 
[意味](形声。音符ツキ→イツ)周代の舞楽の制で、舞人の列をいう。

天子の舞は八佾(縦横八人ずつで、
六十四人)、諸侯は六佾(三十六人)、
大夫は四佾(十六人)、士は二佾(四人)。

また一説に、一佾は八人の一列という。
〔論・八佾〕「八佾舞於庭

 お~、
「佾いつ=列」にて、
疑いを差し挟む余地など、全く無し!

ちなみに、「八佾はちいつ」とは?
と、同書(『角川新字源』)にて検索してみれば…。

【八佾】はちいつ 周代の天子の雅楽。
佾は、舞の列。八人八列、六十四人から
成る。〔論・八佾〕「八佾舞於庭

 う~ん、
この辞書(『角川新字源』)には、

「方形」とか「群舞」、それに「祭祀」という
文字の記載はないものの…、

「まぁ、よし!」として
先に進むことに。

 ちなみに「方形」とは、四角、
それも「8×8」の真四角、
すなわち正方形を連想させるが…。

手元の『新明解国語辞典』にて、
「方形」を見れば、次のような記載が。

ほうけい【方形】四つの内角がすべて
直角である四角(形)。すなわち、広義の
長方形。「方形陣・正方形」

 う~ん、
八佾はちいつとは、
「四つの内角がすべて直角」の舞
だったのかなぁ…?

舞の最中に、時には、鋭角になったり、
鈍角になったりすることもあったのでは…?

などと、疑り深い私は、
吉川博士の丁寧な解説に疑問を抱いてみたり
いちゃもんを付けたりと、困ったもんでぇ…(笑)

 また、吉川博士は、
「是れをしも忍しのぶ可くんば」とは、

「これが座視できるというならば」
と訳しておられる。

が、疑り深い私は、
んんっ?

「これ(是)をしも」は、
「これ(是)をもし」の誤植では?

と、疑惑の眼で見る(困ったもんだぁ…)。

で、手元の国語辞典(『新明解国語辞典』)を
見てみれば、以下のような記載が。

しも(副詞)
①それが付く語の意味を強めることを
表わす。
「これをしも否定するか/今しも/誰しも」

②部分的に打ち消すことを表わす。
「必ずしも安全とは言えない/望み無きに
しもあらず」

 お~、
日常の会話においても
よく見聞きする「しも」!

それを「もし」の誤植では?

と訝るようになれば、
私は既に、痴呆症(の始まり)!?

 蛇足ついでに、吉川博士がおっしゃる
「座視」とは、字面だけを見れば、
座ったまま見ている、

すなわち、何もせずに、ただ黙って
見ているだけのことになるが…。

じゃあ、
角川新字源』にはどのように?
と検索してみた結果は次の通り。

【座視】ざし ①すわったまま見ている。
②関係しないで、そばでだまって見ている。
〔郝教・詩〕「不安座視
同義語:袖手傍観しゅうしゅぼうかん《坐看・坐観・坐視》

 おー、
冒頭のMさんは

「座視できない!」
と言わんばかり?

一方の私はといえば、
次のような反省(疑り?)が…。

「あれっ、
私が社長のバースデーには
1度も出席したことがないのに、

専務のバースデーに出席したことが、
ひょっとしてバレた?

さては、お喋り好きの専務が、
またまた得意気に、『N君(筆者)も
来て(出席して)くれた。』などと…」?

ちなみに、専務の僭上沙汰を非難した
であろうMさんも、もちろん、専務の
バースデーの席に駆けつけていたが…。

当時の専務は傍臣ぼうしん
すなわちオーナー社長の片腕として、
無くてはならない存在であり実権を握っていた。

だと(そのようなことを勘案)すれば、
Mさんは次のように?

「昨日のことを社長に皮肉られてな、
わしは思わず、昨日、専務の家で飲んだ
酒が、口から飛び出しそうやったわい。」

などと言い、当時は権力を保持していた
専務を擁護する発言をしていたかもぉ…?

 う~ん、
季氏きしの僭上沙汰を非難した孔子は、
後に、どのような行動に出たのであろうか。

ちなみに、それから10数年後に、
風見鶏のMさんは、

権力を失いかけた専務に対して、
引導を渡すような発言をする
ことになるのであるが…。

 では、あなたにお伺いします。

上司の僭上沙汰を知ったあなたは、座視します?

それとも、厳しく非難して、
排斥行動を起こすのでしょうか。

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