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2018年3月11日 (日)

「居上不寛(かみにいてかんならず)」解説ページ

Dsc02442 画像は秋田の友人からの
プレゼントです。

 さて、過日のこと。
私が娘に次のように言えば、

「M子(娘の名前)さん、
今日、車を点検に持っていく?」

娘は、以下のように答える。

「いつも、ちまちま(細かいことを細切れに)言う人が、
今日に限って、どうしてぇー?
もっと、早よう言うてやぁ!」と。

で、私は次のように返す。

「お前が帰って来た(帰省した)時に言うたやろ。

『オイル交換と定期検査の表示が
モニターに出とるけど、どうする?

M子さん(娘の名)が、
帰省しとる間にもって行く? 』

言うて、お父さんが訊いたら、

『うん、わかった。
私が行こうわい。』いうて
あんたが言うたやろ。」

すると、娘は!
という話は、後段のお楽しみ。

 先ずは、『論語』 吉川幸次郎(著) 中国古典選3 
朝日文庫からの引用を主に始まる、以下の一章、
八佾はちいつ第三の第26章を篤とくと、ご覧あれ~。

 最初に、訓読(読下し文)を。

わく、
かみに居て寛かんならず、
れいを為して敬けいせず、
に臨のぞんで哀かなしまずんば、
れ何なにを以ってか之れを観ん哉

 次に、現代訳を。

先生(孔子)がおっしゃいました。
「上に立つ身でありながら寛容でなく、
礼儀作法を行うのに敬意がなく、
葬儀に臨んでも哀しまない、というのでは、
その人のどこを見ていいのか、私は分からない」と。

 続いて、吉川博士の解説を。

人の上に立つものに必要なのは寛容。

儀式を行う場合に必要なのは
人間に対する敬意。

葬式に立ち会ったときに必要なのは
哀しみ。

この三つの場合に、
この三つの重要なものがないとすれば、
吾れ何を以ってか之れを観ん哉

という最後の句は、
私にはよくわからないが、見所のない
人物だ、ということなのであろう。

 んっ、
「吾れ何を以ってか之れを観ん哉」、
という最後の句は、

「私にはよくわからない」と、
吉川博士はおっしゃる。

では、『角川新字源』にはどのように?

と、検索してみるも、この最後の句ばかりか、
この一章の語句や熟語に関する記載に、
私は遭遇できない。

 じゃあ、
他の参考書(市販本)には?

と、以下の2冊をめくって見てみれば、
次のような記載が。

・『論語』 金谷 治訳注 岩波文庫

どこを見どころにしたものか、
わたしにはわからない。

 あれっ?
この金谷博士の訳と吉川博士の解説(訳)を
見比べてみれば…。

言葉の配列とそのニュアンスとは異なるものの、
字面は一緒!?

すなわち、
「私にはよくわからないが、見所のない人物だ」
とおっしゃる吉川博士の解説と、

「どこを見どころにしたものか、わたしにはわからない」
という金谷博士の訳とは、
字面のみを見れば、一緒!?

と、考える(思う)のは、
ひょっとして、私だけ?

もっとも、吉川博士は、「私にはよくわからないが」と
断ったうえで、「見所のない人物だ」と、
孔子が言った、と訳しておられるのに対して、

金谷博士は「見どころ(見るところ)が
わたしにはわからない」と、孔子が述べたと
訳しておられる。

この決定的な違いはあれど、
なぜか私は、偶然の一致を発見したようで、
一人、悦に入っている。

・『論語新釈』 宇野哲人 講談社学術文庫

[通釈] わしは何事をもって
その行うところの特質を観よう。
まったく観どころがないのである。

[解説] 観るに足らぬものである。

こちらの[通釈]と[解説]についても、
吉川博士の解説とは、

「ちと(ちょっと)、違う。」と
感じるのは私だけ?

 その違いとは、
「観どころ」、すなわち「観るところ」と、
「見所」の違い。

ちなみに、「見所」を
『広辞苑』にて検索してみた結果は以下の通り。

みどころ【見所】①見る価値のあるところ。
②将来の望み。みこみ。
③見分ける点。めじるし。
④肝要の所。要点。
⑤能の見物席。けんしょ。

 この結果からみれば、
「見どころ」や、「観どころ」よりも、

「見所」の方が、「含みがある」「味がある」!
と、私は考えたのであるが、あなたは?

 そんな「ちまちま」したことや、
「七面倒くさい」話などお断り!

とおっしゃるあなたの叱正に促された私、
遅蒔きながら、冒頭の続きを。

私の問いかけ(詰問?)に対して、
娘はだんまりを決め込んだ。

その様子を見て、私の頭の中には、
次のような発見、気付きが。

「そうか!
娘が、つい、最近まで、

私と会話を交わしたがらなかった
要因の1つが、「居上不 かみにいてかんならず」。

すなわち、私が上から目線で
あれこれ言っていたのが、
娘には鬱陶しかったのであろう。

で、ある時、娘は
私に次のようなことを。

「お父さん、
私を信用してやっ!」と。

この時、私は「負うた子に教えられる」
経験・体験をしたのであるが…。

 そして今回の娘の言葉、
「ちまちま言う」を聞き、
娘がだんまりを決め込んだ瞬間を見て、

「居上不 かみにいてかんならず)」、
すなわち「ゆたかで、ひろい、ゆるす心」の
大切さを「負うた子に教えられた」ようで…。

 では、あなたにお伺いします。

あなたの器量、すなわち心の深さや寛さ、大きさを、
器に例えるとすれば、どんな器になるのでしょう?

  <「居上不 かみにいてかんならず」解説ページ 附録> 

 んっ
森友学園!?

すなわち、私も財務省と同じような
過ちを。

ない」といっていたハズの語句の1つが、
角川新字源』の中にはあった(存在していた)。

 参考までにと、『角川新字源』にて
「寛」の意味を見てみれば…。

カン 意味①ひろい→付・同訓意義。

すなわち意味①の「ひろい」については、
「付録の同訓意義を見よ」というので、

巻末の付録を開いて見れば、
以下のような記載が。

ひろい(ひろし)

・【寛】かん 「猛」の対。政治や人物が
ゆったりと、のびのびしていること。
〔論・八佾〕「居上不寛」

・【広(廣)】こう 「狭」の対。ものが広大で、
限りもなく広い。
〔易・繋辞〕「広大配天地

その他に6つ、ひろい(ひろし)の漢字と
その意味が記載されているけれど…、
割愛。

 あれっ、
私は、「狭」ではなく、
「猛」だった!?

どう考えてみても、
「ちまちました人」という娘の言葉は、

「ゆったりと、のびのびしていること」の対、

すなわち、対義語であり、「こせこせした人間」
だと、私は考えていたのであるが…。

「猛」には、「こせこせした」という意味や
「狭い」という意味など、存在しない!

はずであるが…。

また、私は宿題、すなわち成長のもとを
1つ発見してしまったぁ~。

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