画像は秋田の友人からの
プレゼントです。
さて、2か月前、
すなわち2月中旬頃の出来事。
私が、某ゴルフ場の18ホールを廻り終えた後、
(自分の)キャディバッグを覗いて見れば、
「無い!
6アイアンとユーティリティのヘッドカバーが無い」。
で、スタート室に戻り、クラブ確認時に
私はその旨をスタッフに告げた。
そして入浴後、自動精算機にて支払いをしようとすれば、
「お支払いができません。」と、精算機がいう(表示が)。
で、私は受付にて、その旨を告げ、
カードホルダーを差し出したところ、
「Nさん(筆者名)ですね。
こちらで支払いはできます。
ですが、アイアンは見つかりませんでした。
見つかりましたら、お電話で連絡いたします。
もし連絡がない場合は、来月の○○会(コンペ名)に
いらっしゃったときにでも、ご確認ください。」と、
受付嬢がいう。
でも、待てど暮らせど、一向に連絡は来ない!
そうこうする内に、3月度の○○会(コンペ名)の日が来た。
で、私は、当日の朝、スタート室に行って、
氏名を告げた後、紛失した日と紛失物(忘れ物?)の
アイアン名と、メーカー名を告げ、その有無を尋ねた。
すると!
という話の続きは後段にて。
先ずは、『論語下』(吉川幸次郎 中国古典選5 朝日文庫)の中から
抽出した「子張しちょう第十九の第15章」をご覧に。
最初に、読み下し文を。
子游しゆう曰いわく、
吾わが友とも張ちょうや、
能よくし難がたきを為なす也なり。
然しかり而しこうして、未いまだ仁じんならず。
次に、現代訳を。
子游しゆうが、以下のように言った。
「私の友人である子張しちょうは、
他の人々には上手くできないようなことをやってのける。
然しかれども、まだ仁者の域には達していない」と。
続いて、吉川博士の解説を。
・子游すなわち言偃げんえんが、
同門の友人子張、すなわち顓孫師せんそんしを、批評した言葉。
・私の友人の子張は、人の出来ないことをやる。
しかし、それはかえって、完全に人道的であるとは、
いいにくい。
・その人には出来ても、他の者はついて行けない行為、
それらは必ずしも人道的ではない。
儒家の書には、ほかにもこの思想をいうものがある。
たとえば「礼記」の「檀弓だんぐう」上に、
「弁べんの人、其の母死して、孺子泣じゅしきゅうする者有り」、
赤ん坊のようにわあわあ泣く者があった。
「孔子曰わく、哀かなしきことは則ち哀し矣。
而うして継ぐを為し難き也。
夫それ礼は伝う可べきを為す也。継ぐ可きを為す也。
故に哭踊こくようには節さだめ有り」。
ひろく人人が伝承し、継承し得てこそ、礼である。
さればこそ、親の喪に対する悲哀の表現として、
哭すなわち号泣、踊すなわち身ぶるい、
それぞれに定まった節度が与えられている、というのである。
・「難能」の二字は、三条あとの曽子の言葉にも見える。
<以下 割愛>
んっ、
吉川博士が、「難能」の二字は、三条あとの云々」と、
おっしゃるので、「子張しちょう第十九 第18章」を見れば,
吉川博士は、「是難能也」という漢文に対して、
「だれでもが出来ることではない」という
現代訳を付した後、次のような解説を。
「難能」の二字、ここでは価値的な評価を示すもの
として使われている。
じゃあ、ここ(第15章)の「難能」も、
価値的評価を示すもの?
それとも…、と思い、『角川新字源』にて、
「難能」を検索してみるも、その記載は見当たらない。
そこで、『論語新釈』(宇野哲人 講談社学術文庫を)を開いて、
(子張しちょう第十九 第15章を)見れば、以下のような記載が。
[通釈] 能よく人の為なし難がたい事を為す。
[語釈] 〇能よくし難がたし=人の為し難い所をいう。
また、同書にて(子張しちょう第十九 第18章の)「是難能也」の
[通釈]と[語釈]を見た結果は、以下の通り。
[通釈] 誠に行い難がたいのである。
[語釈] 〇能よくし難がたし=これを為なすことは容易でない。
以上のように記されていたが、吉川博士がおっしゃる、
「価値的な評価を示すもの」という文言には、遭遇できなかった。
従って、ここ(第15章)の「難能」が、
価値的評価を示すものであるか、否か?
私は、断言できないまま、スルーすることに。
さて、うやむやな思い・気持ちを抱え込みながら、
冒頭の続きを。
私がスタート室に行って、氏名を告げ、紛失した日と、
紛失物を告げたところ、女性スタッフは壁に立てかけた
遺失物を1つ、1つ、確認して回った後、次のように。
「有りませんねぇー。
あの後、探しに行ったのですが、有りませんでした。」
と、答える。
で、私は次のように尋ねた。
「じゃあ、紛失届を出せます?」と。
すると、彼女(女性スタッフ)は、次のようなことを。
「入場証明は出せますが、紛失届は出せません」
と、のたまう。
で、私は以下のように続ける。
「そうですか。
紛失届は出せませんか。
朝、スタート前に、クラブの本数を数えるでしょう。
そしてホールアウトした後、(クラブの)本数を確認するでしょ。」
と、当然の如く、言った(尋ねた)。
すると、驚くなかれ、彼女は気色ばんで、
次のように答える。
「うちは、スタート前に、
クラブの本数を数えていません」と。
「ありゃあ、なるほど。
こりゃ駄目だ」と思った私は、
「ありがとう」と言い残して、その場を後に。
そして私は、〇〇会(コンペ名)の幹事さんに、
事の経緯を告げた後、次のように尋ねた。
「先月のコンペで6番アイアンが行方不明になったんです。
で、今、スタート室に行って問い合わせたところ、
「無かった」という返事だったのですが…。
コース上に無かったら、先月の同伴者の(キャディ)バッグの中に、
紛れ込んでいるのでは? と私は思ったのですが…。
今日は、○○さん(先月の同伴者の一人)の名前が
見当りませんけど、欠席でしょうか?」と。
すると、幹事さんは、今日の名簿(メンバー表)を
確認した後、以下のように。
「そうよ。
今日は、○○さん(先月の同伴者の一人)、欠席よ。」と、
応えた後、「ちょっと、電話してみょうわい。」と言い、
早速、電話を。
そして彼(幹事さんは)、電話に出た○○さん本人に、
私が紛失した現物名を告げて、○○さんのバッグの中に
紛れ込んでいないか? を確認するよう依頼した。
その後、練習グリーンに向かった私は、
Sさん(先月の同伴者の一人)の顔が見えたので、
彼(Sさん)のもとに行って、次のように尋ねた。
「先月はお世話になりました。
先月のコンペで、私の6番アイアンが行方不明になったのですが、
Sさんの(キャディ)バッグの中に紛れ込んだりしては
ないでしょう?」と。
すると、彼(Sさん)は
「わしの中には入って無かったよ」と。
その答えを聞いた私は、さらに、以下のように続ける。
「そうですよね。
Sさんなら、その日の内に、直ぐ、気付くでしょうし、
『わしのバッグに、誰かの6番アイアンが入っとるるけど、
誰か無くした人は居らんか?』と、おっしゃるでしょうからねっ。」と。
すると、Sさんは、
「ほうよ。わしは間違いが無いけん。」とおっしゃる。
で、私は、次のように続ける。
「Mさん((先月の同伴者の一人)も、Sさんと同じで、
間違いのない人ですから、Mさんに尋ねる必要はなさそうですねっ。」
と、念を押す。
この私の問いに対して、Sさんは、
「そうよ。Mさんも大丈夫よ!」
と太鼓判を押した。
で、私は「そうですねっ。」と答えた後、
以下のように尋ねる。
「○○さんは?
あの人(〇〇さん)も、私と同じメーカーの、同じようなアイアンを
使っていたので、ひょっとして、間違って持って帰ったということは?」
と、私が言うや、否や、Sさんは次のように。
「そうよ!
アイツが、一番危ない。
今度、バッグの中を覗いて、見とこうわい。
○○(メーカー名)の□□(商品名)やったな」と、おっしゃる。
で、私は次のように尋ねる。
「〇〇さんも、Sさんと同じ(ゴルフ)練習場に行きよるんです?」と。
すると、Sさんは、
「そうよ。今度、練習に行ったとき、見とこうわい」と答える。
斯様に、行方不明になった1本のゴルフギアについて、
事実のみを長々と並べ立てる私は、
「為難能也よくしがたたきをなすなり」?
つまりそれは、「然而未仁しかりしこうしていまだじんならず」!
平たく言えば、「けれども、人道的であるとは、いいにくい」!
ということ…?
では、あなたにお伺いします。
あなたの周りの人々の中に、「為難能也よくしがたたきをなすなり」、
すなわち「人の出来ないことをやる」方、いらっしゃいません?
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