「多見其不知量也(まさにそのりょうをしらざるをみるなり)」解説ページ
さて、子供の頃といえば、
今を去ること70年程も昔の話。
ある日のこと、いつもはいじめられている児童が、
「馬鹿、バカ、言うもんが、馬鹿よ!」と言って
同級生の児童に噛みついた。
この反応(反転攻勢)に、驚愕したのか?
茫然として、その場に立ち尽くしたのは、
いじめっ子の同級生。
それ以来、彼等の力関係が反転した。
そんな古い記憶が、私の頭の片隅に残っているが…。
この同級生の一言は、母親の教え(入れ知恵)であったのか、
否か? それは、私の知る所ではないが…。
これって、以下の「論語」の一章が
伏線にあった?
先ず、その章(『論語下』(吉川幸次郎 中国古典選5 朝日文庫)の
中から抽出した「子張しちょう第十九 第24章」)をご覧に。
最初に、読み下し文を。
叔孫武叔しゅくそんぶしゅく仲尼ちゅうじを毀そしる。
子貢しこう曰いわく、
以もって為なす無なき也なり。
仲尼ちゅうじは毀そしるべからざる也なり。
他人たにんの賢者けんじゃは、丘陵きゅうりょう也なり。
猶なお踰こゆる可べき也なり。
仲尼ちゅうじは日月じつげつ也なり。
得えて踰こゆる無なし。
人ひと自みずから絶たたんと欲ほっすと雖いえども、
其それ何なにをか日月じつげつに傷そこなわん乎や。
多まさに其その量りょうを知しらざるを見みる也なり。
次に、現代訳を。
叔孫武叔しゅくそんぶしゅくが孔子(仲尼ちゅうじ)を非難した。
(これを聞いた弟子の)子貢しこうが、以下のように述べた、
「(先生の悪口を言うのは、)およしなさい。
先生(孔子・仲尼ちゅうじ)の悪口をいうことはできません。
他の優れている人は、小高い丘です。
人間の足で踏み越えることが出来ます。
先生(孔子・仲尼ちゅうじ)は日月じつげつです。
人間の足で踏み越えることはできません。
人間が(日月=孔子と)交わりを断とうとしても、
日月じつげつを傷つけることができましょうか。
ただ、自己の器量をあらわにするだけです」と。
続いて、吉川博士の解説を。
・この章は前の章の異伝であろう。
毀は「そしる」と訓じ、非難、悪口、の意である。
・まえの章では、子貢を比較の媒介として、
まだしも婉曲に孔子のわるくちをいった叔孫武叔が、
この章では、もっとぶっつけに、わるくちをいったことになる。
・それを聞きつけた子貢がいった。
それは無意味である、「以って為す無き也」。
仲尼さまにに対するわるくちは、不可能である、
「仲尼は毀そしる可からざる也」。
なんとなれば、他の人の場合は、偉大であるといっても、
それは小岡大岡のごときものである。
・新注に、「土の高きを丘と曰い、大いなる阜おかを陵と曰う」と
いうのは、「周礼しゅうらい」「大司徒だいしと」の鄭注にもとづく。
小さなまた大きな岡、それらは高いところではあるけれども、
なおやはり人間の足で踏みこえることが出来る。
しかるに仲尼は、日月である。隔絶した高さにある。
・日本の本には「如ニ日月一也」とするものもあるが、
「如」の字で比喩しない普通の本の方が、文勢は強い。
日月は、人間の足で踏みこえることのできない高さにあるが、
仲尼はそのごとくである。
・皇侃の「義疏」に、丘陵は、その上にのぼれるから、
感覚的に高さを感じうるが、日月は、そこにのぼり得ないから、
その「高きを覚えず」というのは、言外の意味を演繹したもの
として、面白い。
のみならず、日月は隔絶した高さにある故に、
隔絶した普遍さをもつ。
人すべてだれもが、その影響のもとにある。人間の方から
縁を切ろうと思っても、日月としては、何の損害もない。
「其れ何をか日月に傷そこなわんや」。
にもかかわらず、こっちから縁を切ろうとする人間は、
自分の力量を知らないという愚かさ、
ほかでもなくそれを表現するだけである。
ここの多の字は、「ほかでもなく」の意であり、
適、祇と同じであるとされる。
「まさに」という和訓も、その意味からである。
・なお「多まさに其の量を知らざるを見る也」の「量」は、
新注が「自ずから其の分量を知らざるを謂う也」というように、
自己の容量、人格の程度、をいう。
皇侃の「義疏」が、「聖人の度量を知らざる也」とし、
孔子の量とするのは、いけない。
う~ん、
この一章に関する吉川博士の解説は、長いし、細かくて、
浅学菲才の身には少々、難解。
そこで、先ず、吉川博士がおっしゃる、
以下の3つの語釈(現代訳)と、この章に関する語句を、
『角川新字源』にて検索してみることに。
・毀は「そしる」と訓じ、非難、悪口、の意である。
・「以って為す無き也」は、不可能である、
・ここの多の字は、「ほかでもなく」の意であり、
適、祇と同じである
そしる
【毀】キ 「誉」の対。人のことをうちこわし悪く言う。
〔論・子張〕「叔孫武叔毀二仲尼一」
【丘陵】きゅうりょう おか。小高い所。
【日月】じつげつ/にちげつ ③聖人・賢人のたとえに
用いることば。
〔論・子張〕「仲尼、日月也。無ニ得而踰一焉」
【多】意味⑦まさに。ただ。→祇シ
〔〔論・子張〕「多見ニ其不一レ知レ量也」
う~ん、
「日月」の意味には、この章の一節が記されているが、
「丘陵」には、その記載がない。
また、この字書(『角川新字源』)には、
「無二以為一也もってなすなきなり」という語句の記載が見当たらない。
そこで、『論語新釈』(宇野哲人 講談社学術文庫)の[語釈]を
覗いて見た。 その結果は以下の通り。
〇 「以もって為なすなし」=毀そしることをするな。
ちなみに、同書の[語釈]には、以下のような記載も。
〇 丘陵きゅうりょう=高さに限りがあるのに
喩たとえたのである。
〇 日月じつげつ=最高に喩えたのである。
〇 自みづから絶たつ=毀そしって自ら孔子と絶つこと。
〇 多まさに=適まさに
〇 量りょうを知らず=自ら己の分量を知らぬこと。
「其その量を知らず」は己の愚ぐをあらわすのである。
う~ん、
「以もって為なすなし」=「不可能」?
それとも、「毀そしることをするな」?
ちなみに、「そんなことはおやめなさい」というのが、
『論語』(金谷 治訳注 岩波文庫)の現代訳であり、
宇野博士の解釈(現代訳)と、ほぼ一致。
また、吉川博士が、多の字は、「ほかでもなく」の意である、
とおっしゃるが、その記載(表示)は、どこにも見当たらない。
でも、「多=適・祇シ」については、確認できた。
やれ、やれ。
これを「骨折り損のくたびれ儲け」という?
それとも、「また、1つ賢くなった!」と、自己満足するのか…?
それはさておき、幼い頃に見聞きした冒頭の記憶と、
「論語」のこの一章に触れてみて、いま、ここで、私が気付いた
のは、以下のような事柄。
いじめっ子に対しては、「ガツン! と言うちゃれ」というのが
Aさんの主義・主張。
一方、「言いたい奴には言わせておけばいい」。
これが私の主義。
この言葉の裏を返せば、
Aさんが勇気ある人で、
私はヘタレ?
さらに言えば、
Aさんが子貢しこうタイプであり、
私が孔子(日月じつげつ)タイプ?
といえば、買いかぶりもいいところ!
などと、言葉遊びをする中にも、
「多見其不知量也まさにそのりょうをしらざるをみるなり」!
すなわち、ただ、己の器量を知らないことを見あらわすのみ。
つまり、身の程知らずを表現するのみ。
また、「多」という語句をみた私の頭の片隅には、
「多多益辦たたますますべんず」という四字熟語が。
最後に、『論語新釈』(宇野哲人 講談社学術文庫)の
[解説]を見た私は、以下のような箴言しんげんも得て、
生きる糧(心の糧)に。
孔子のような聖徳せいとくがあっても
人の毀そしりを免まぬがれないのであるから、
その他の者が毀そしられるのは当然である。
道に志す者は毀誉きよをもって
心を動かしてはならないのである。
では、あなたにお伺いします。
「多見其不知量也まさにそのりょうをしらざるをみるなり」、
すなわち「自らの器量や力量を知らず」、パワハラを繰り返す
身の程知らずの上司に、あなたはどんな言葉をお返しします?
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