画像は秋田の友人からの
プレゼントです。
さて、愚妻はいう。
「痛い目に遭うたら、解るんよぉー。
人間、痛い目に遭わんと、なんぼ言うても
解らんのよ。」と、のたまうが…。
この言葉は、自らの体験からくる言葉なのか?
それとも、TVか何かで、聞きかじった言葉なのか?
それは兎も角、私が、人の道、すなわち人間としての
守るべきルールを、我が子に説くのであるが…。
どこかの誰かは、「解るまで、諦めず、何度も、何度も、
耳に胼胝たこができる迄、繰り返し教えよ!」という。
彼は、「馬の耳に念仏」という諺を知らないのか?
それとも、ビジネス書か、誰かの受け売りなのか…?
そういえば!
という話の続きは、後段にて。
先ずは、『論語中』(吉川幸次郎 中国古典選4 朝日文庫)の中から
抽出した「先進せんしん第十一の第26章」(の前半部分)をご覧に。
最初に、読み下し文を。
子路しろ、曾晳そうせき、冉有ぜんゆう、公西華こうせいか、
侍坐じざす。
子し曰いわく、
吾われ一日いちじつ爾なんじに長ちょうずるを以もって、
吾われを以もってする毋なき也なり。
居おれば則すなわち曰いわく、吾われを知しらざる也なりと。
如もし或あるいは爾なんじを知しらば、
則すなわち何なにを以もってせん哉や。
子路しろ、率爾そつじとして対こたえて曰いわく、
千乗せんじょうの国くに、大国たいこくの間あいだに摂はさまれ、
之これに加くおうるに師旅しりょを以もってし、
之これに因かさぬるに饑饉ききんを以もってす。
由ゆうや之これを為おさむるに、
三年さんねんに及およぶ比ころおいには、
勇ゆう有あらしめ、且かつ方みちを知しらしむ可べき也なり。
夫子ふうし之これを哂わろう。
求きゅう、爾なんじは如何いかん。
対こたえて曰いわく、
方ほう六七十ろくしちじゅう、如もしくは五六十ごろくじゅう。
求きゅうや之これを為おさむるに、
三年さんねんに及およぶ比ころおいには、
民たみをして足たらしむ可べし。
其その礼樂れいがくの如ごときは、
以もって君子くんしを俟またん。
赤せき、爾なんじは如何いかん。
対こたえて曰いわく、
之これを能よくすと曰いうに非あらず。
願ねがわくは学まなばん。
宗廟そうびょうの事こと、如もしくは会同かいどうに、
端章甫たんしょうほして、願ねがわくは小相しょうしょうと為ならん。
次に、現代訳を。
弟子の子路しろ、曾晳そうせき、冉有ぜんゆう、公西華こうせいかが、
孔子の側に坐っていた。
孔子が以下のように言った。
「私が君たちより、少し、年長だからということで
私に遠慮をすることはない。
常日頃、君たちはいう。『私を知らない』と。
もし、君たちのことを知って(認めて)くれたならば、
何をどのようにするのかね」。
子路しろが出し抜けに、次のように言った。
「兵車千両を出すことのできる国が、
大国の間に挟まれ、
百万人超の軍隊に侵略された後、
飢えと凶作に見舞われたとします。
私、由ゆうが、(その国を)治めたならば、
3年の間には、
勇敢で、且つ、人の道を知る人民にいたします」。
孔子は、子路の言葉に微笑を浮かべた。
「求きゅう、君はどうかね?」(孔子が冉有ぜんゆう)に尋ねた。
冉有ぜんゆうは孔子の問いに、以下のように答えた。
「六七十里四方、あるいは五六十里四方の国を、
私、求きゅうが治めたならば、
3年の内には、
人民の暮らしを充足させましょう。
礼楽については、君子が現れるのを待ちます」。
「赤せき、君はどうかね?」孔子が公西華こうせいか)に尋ねた。
公西華こうせいかは以下のように答えた。
「何かを良くするということではございません。
学びたいと思います。
祖先の祭祀の事、あるいは諸侯の会合に、
黒の礼服と礼冠を着用して、主君の世話役になることを」と。
続いて、吉川博士の解説を。
・一見して明らかなように、
「論語」の中で最も長い章である。
また孔子のゆたかな、あたたかい性格を示すものとして、
大変有名な章である。
・「子路しろ、曾晳そうせき、冉有ぜんゆう、公西華こうせいか、
侍坐じざす」。かりに孔子七十歳のときとすれば、
子路六十一歳、曾晳もその年輩、冉有四十一歳、
公西華二十八歳、かく老若とりまぜた弟子が、
孔子をとりかこんで、すわっていた。
・「子曰わく、吾れ一日いちじつ爾なんじに長ぜるを以って、
吾れを以ってする毋なき也」。私は君たちより、
少しだけ年かさだが、そのために私に遠慮する必要はない。
「一日爾に長ず」とは、
いうまでもなく、謙遜による誇張である。
・「居れば則ち曰わく、吾れを知らざる也と」。平常諸君は、
口ぐせのように、「われわれは認められない。という。
「居れば則ち曰わく」の「居」の字は、平常を意味する。
・「如もし或いは爾なんじを知らば、
則すなわち何を以もってせん哉や」。
もしかりに、君たちが世間から認められたとしたら、
どういうことをやりたいか。
・「子路、率爾そつじとして対こたえて曰わく」、
率爾は、あっさり、と訳してよいであろう。
まっさきに答えたのは、例によって気の早い子路であった。
・いわく「千乗せんじょうの国、大国の間に摂はさまれ、
之れに加くおうるに師旅しりょを以もってし、
之に因かさぬるに饑饉ききんを以ってす」。
千乗の国とは、戦車千台と、それに相応した兵士とを、
供出しうるだけの地域をもった、大名のくにである。
ここではそれが、大国の間に摂はさまれ、
というのだから、弱小の国である。
「摂しょうは迫せまる也」、つまり両側の大国から脅威圧迫を
受けている小さな千乗の国、それが軍隊の侵略を受け、
かつ戦争の結果として饑饉をおこしているとしましょう。
「由や之れを為おさむるに、三年に及ぶ比ころおいには、
勇有あらしめ、且つ方みちを知らしむ可べき也」。
私がもし、そうした困難な国の政治を担当したとします
ならば、三年の間には、勇ましい心情をもつばかりでなく、
正しい人間の生きかたが、わかるように、して見せましょう。
・「夫子之れを哂う」。「哂」の字は、
漢の馬融ばゆうの説を引いて、「笑う也」とある。
<中略>
・子路の答えに対する笑いがおわると、
孔子は、求、すなわち冉求の答えをうながした。
「求きゅう爾なんじは如何いかん」。
・「対こたえて曰わく、方ほう六七十、如もしくは五六十、
求や之を為おさむるに、三年に及ぶ比ころおいには、
民をして足ら使しむ可し、
其の礼楽れいがくの如ごときは、以って君子を俟またん」。
・「六七十華里四方、もしくは五六十華里四方のくに、
つまり東京都よりやや小さいぐらいの面積のくに、
私が、そこの政治の責任者となれば、
三年間には、人民の経済生活を、充足させて見せましょう。
文化生活の法則である礼樂は、さらに有能な君子が、
その事に当たられるのを待つといたしまして。
それが冉有の答えであった。
俟しは「待つ也」と訓ぜられる。
俟しと待たいとは、古代音では近い。
<中略>
・冉有の答えに対し、孔子がどんな反応をしたかは、
記されていない。
そうして、赤すなわち公西華の答えを、次にうながす。
「赤せき、爾なんじは如何いかん」。
・「対こたえて曰わく、之れを能よくすと曰うに非ず。
願わくは学ばん焉。
宗廟の事、如もしくは会同に、端章甫して、
願わくは小相と為ならん焉」。
公西華の答え。
以下のことが、私にうまくできると、はっきりいえるわけでは
ありませんが、勉強して、やってみたいと思います。
宗廟すなわち君主が先祖を祭る廟で行われる行事、
もしくは会同、すなわち大名たちが儀礼として行う定期的な
会合、その小規模なものが「会」、
大規模なものが「同」であるが、
その場合には、大礼服である「玄端」の上着、
また「章甫」の冠りをかむって君主の補佐役、
といっても最高の責任者でなく些細な輔佐の役目が
「小相しょうしょう」であるが、
その「小相」をつとめたいと思います。
・宗廟における祭祀は、その国の文化理念の表現であり、
また会合における君主の言語行為は、その君主のくにの
文化能力の表現として、いずれも重視され、
君主が正しく行動するためには、
よい輔佐役が必要であった。
その輔佐役のはしくれをつとめたい、というのが
公西華の抱負であった。
<後略>
う~ん、
吉川博士は、「率爾は、あっさり、と訳してよいであろう」
とおっしゃる。
じゃあ、『角川新字源』(小川環樹・西田太一郎・赤塚 忠 編)には、
どのように記載が? と思い、「卒爾」他、
この章の前半部分の語句を検索してみた結果は以下の通り。
【侍坐】じざ 貴人のそばにすわる。
〔孝経〕「仲尼間居、曾子侍坐」
【一日之長】いちじつのちょう ①少し年齢が多いこと。
〔論・先進〕「以三吾一日長二乎爾一、毋二吾以一也」
【卒爾】=そつじ【卒然】そつぜん にわかに。不意に。
だしぬけに。同義語:率爾・率然・倅然そつぜん・猝然そつぜん
【千乗之国】せんじょうのくに 兵車千両を出すことのできる
諸侯(大名)の国。
【師旅】しりょ 軍隊。五百人を旅といい、五旅を師という。
〔論・先進〕「加レ之以二師旅一、因レ之以二饑饉一」
【知方】ちほう 人の行なうべき道を知る。
〔論・先進〕「可レ使二有レ勇、且知一レ方也」
【宗廟】そうびょう ①祖先のみたまや。
②国家。同義語:社稷しゃしょく。
【会同】かいどう ①周代、諸侯が天子に拝謁すること。来朝。
②諸侯の寄り合い。③寄り合い。会合。
【端章甫】たんしょうほ 端は玄端の服で、
周代の諸侯が朝勤のとき着る黒色の正しい式服。
章甫は殷いんの礼冠。〔論・先進〕
【小相】しょうしょう 主君が儀式を行なうのを助ける世話役。
小は、けんそんしていうことば。〔論・先進〕
う~ん、
「師旅」の内容が…?
吉川博士は、「軍隊」といい、
『角川新字源』には「軍隊」と、「五百人を旅といい、五旅を師という」。
ならば、「師旅」とは、2,500人の軍隊?
何万もの兵とは、桁が違うが…。
そこで、『論語新釈』(宇野哲人 講談社学術文庫)の[語釈]を見れば、
以下のような掲載が。
〇師旅=軍隊をいう。師は二千五百人。旅は五百人。
ここでは師旅を動かして戦争すること。
おぉ~、
これならば、1,250,000人の軍隊になる。
そのような視点に立って、『角川新字源』の「師旅」を見れば、
宇野博士の[語釈]と一致する。「やれやれ」
また、「方ほう六七十ろくしちじゅう、如もしくは五六十ごろくじゅう」について
吉川博士は、「東京都よりやや小さいぐらいの面積」だとおっしゃる。
『角川新字源』の、「周・春秋・戦国時代の度量衡換算表」をみれば、
「里=405m」にて計算結果は「東京都よりやや小さいぐらいの面積」
「やれやれ、ホッ」
としたところで、冒頭の続きを。
さて、
誰かさんの受け売りか? それとも愚妻の言い分が正解なのか?
その答えの1つを以下の身近な実例にて。
「フェンスを越えるボール遊び禁止」の掲示板がある公園にて、
就業後にキャッチボールを楽しんでいた2人の社会人が、
公園横の住宅の窓ガラスを割った。そして謝罪と弁償をした。
以来、彼等の姿を当該公園で再び見ることはなかった。
また、休日に、高校生数人が、当該公園にてソフトボールを
愉しんでいた。そのボールが、フェンスを越えて、
公園横の、住宅の窓ガラスを割った。
そして、謝罪と弁償をして、
それ以来、彼らの姿を当該公園にて見かけることはなかった。
由(ゆう。子路しろ)はいう。
「可レ使二有レ勇、且知一レ方也ゆうあらしめ、かつ、みちをしらしむべきなり」
すなわち、「勇ましい心情をもつばかりでなく、
正しい人間の生きかたが、わかるように、して見せましょう」と。
つまり、「正しい人間の生き方が分かるようにする」ためには、
「自らの失敗を糧(基)に(痛い目に遭って)、自ら学ぶ。」
という愚妻派と、
「失敗しないように、耳に胼胝たこができる位、解るまで、
何度も何度も、繰り返し、繰り返し、言え(教えよ)」という
誰かさん派(受け売り派)。
そのどちらが、現代の若者には、理解でき、受け入れられ、
「知方ちほう」、すなわち「人の道を知る」ことが
できるようになるのでしょうか…。
では、あなたにお伺いします。
あなたは、部下が知レ方(道を知る)ために、
どんな教育を施しています?
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