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2023年11月26日 (日)

知方(ちほう)

1505024_20231126143001  画像は秋田の友人からの
プレゼントです。

 さて、(手元のカレンダー上では)先週の事。

不慮の事故で亡くなった実弟の遺体を引き取りに、
長兄と、その娘との3人で、所轄の警察署に出向いた。

その後、葬儀屋に遺体を引き渡し、
生前、彼(実弟)が住んでいた団地に向かった。

玄関を開けて、びっくり!

部屋中、散らかし放しで、生活感がない。
「内縁の妻と、暮らしている」と、
私は聞いていたのに…。

とりあえず、その日は、3人で遺品を整理して、
翌日、斎場(火葬場)に向かった。

そこで、「(実弟と)結婚します!」と言って、
実弟と2人で、私の田舎(故郷)を後にしたという
女性と会って、経緯を聞いた。

すると、我々身内が聞いていた話とは、大違い。
件の女性は、「結婚するといった記憶が無い」と言い、
「私には、主人と息子もいる」と、のたまう。

警察は「解剖した結果、事件性は無い」と言っていたが、
私は彼女の話や、その友人(と称する人達)の話を聞いて、

当初、「実弟が自ら命を絶った?」と考えていた思惑が、
「騙された挙句の果てに、実弟は殺されたのでは?」と
いう思い・疑心暗鬼に変わっていった。

 その後、私達3人は実弟の骨壺を抱いて、
生前、実弟が住んでいた団地を再び訪れ、野暮用を済ませた後、
その部屋で遺品整理業社の代表者と待ち合わせをした。

そして遺品の処分と、生前、弟が住んでいた部屋の原状復元を
依頼して、帰路に就いた。

その道中で、かつて長距離トラックの運転手をしていた長兄が、
以下のような話(エピソード)を。

「○○(実弟名)が、車でワシの後を追いかけて来て、
『ピィー、ピィー』と、クラクションを鳴らすんで、
見たら○○(実弟名)よ。

わしが、『どこかで、お茶でも?』と聞いたら、
「朝寝坊して遅れたんで、急いどるんよ。」と言うて、
先に行ったんやけど、あれが○○(実弟名)との
最後の言葉になったわい。

あの時、○○(実弟名)は、ええ会社の社名が入った
トラックに乗とったけん、『ええー会社に入っとい。』と
思うたんやけど、どこで、道を間違えたんやろうのぉ…」と。

 この話を聞いた私の頭の中には、
次のような思い・考えが、片隅を過った。

かつて、私が、愚息に向かって、
『どこで(道を)間違うたんやろうかのぉ―』と言った時、
愚息は『間違うとらせん!』と、言い返していたが…。

○○(実弟名)の生きざま(結末)をかいま見て、
私は、愚息の将来を見たような思い・感情に支配された。

そして、この先(将来)、□□(愚息名)も、道を間違えて、
○○(実弟名)と同じ道を歩まならなければいいが…。」
という老婆心に変化していった…。

 では、あなたに、お伺いします。

あなたがご存知の「方みち」とは、どんな道です?


    <<< 「知方ちほう)」 附録 >>>


「知方ちほう」とは、何ぞや?

ある人、曰いわく、「中国語は、(読む)順序を逆にしたらいい」と。
その教えに従い、日本語に変換すれば、「方知」となる。
「知」は知識の知であり、認知の知で、「知る・認める」意(意味)。

じゃあ、「方」とは?
と、『角川新字源』を見れば、次のような意味が。

【方】ホウ/カタ 意味⑬みち(道)。道義。「義方」

すなわち、「方」とは、「正しい道」のことにて、
【知方】ちほう とは、「人の行なうべき道を知る。」ことだと
同字書には記載されているが、

吉川博士は、「知みちをしる」とは、
「正しい人間の生きかたが、わかる」ことだと、
解釈しておられる。

 はて、さて、正しい道とは、
一言でいえば、どんな道?

2023年11月19日 (日)

「知方(ちほう)」解説ページ

1401203  画像は秋田の友人からの
プレゼントです。

 さて、愚妻はいう。

「痛い目に遭うたら、解るんよぉー。
人間、痛い目に遭わんと、なんぼ言うても
解らんのよ。」と、のたまうが…。

この言葉は、自らの体験からくる言葉なのか?
それとも、TVか何かで、聞きかじった言葉なのか?

それは兎も角、私が、人の道、すなわち人間としての
守るべきルールを、我が子に説くのであるが…。

どこかの誰かは、「解るまで、諦めず、何度も、何度も、
耳に胼胝たこができる迄、繰り返し教えよ!」という。

彼は、「馬の耳に念仏」という諺を知らないのか?
それとも、ビジネス書か、誰かの受け売りなのか…?

 そういえば!
という話の続きは、後段にて。

 先ずは、『論語(吉川幸次郎 中国古典選4 朝日文庫)の中から
抽出した「先進せんしん第十一の第26章」(の前半部分)をご覧に。

 最初に、読み下し文を。

子路しろ、曾晳そうせき、冉有ぜんゆう、公西華こうせいか
侍坐じざす。
わく、
れ一日いちじつなんじに長ちょうずるを以って、
れを以ってする毋き也なり
れば則すなわち曰わく、吾れを知らざる也なりと。
し或あるいは爾なんじを知らば、
すなわち何なにを以ってせん哉
子路しろ、率爾そつじとして対こたえて曰わく、
千乗せんじょうの国くに、大国たいこくの間あいだに摂はさまれ、
れに加くおうるに師旅しりょを以ってし、
れに因かさぬるに饑饉ききんを以ってす。
ゆうや之れを為おさむるに、
三年さんねんに及およぶ比ころおいには、
ゆうらしめ、且つ方みちを知らしむ可き也なり
夫子ふうしれを哂わろう。
きゅう、爾なんじは如何いかん
こたえて曰わく、
ほう六七十ろくしちじゅう、如しくは五六十ごろくじゅう
きゅうや之れを為おさむるに、
三年さんねんに及およぶ比ころおいには、
たみをして足らしむ可し。
の礼樂れいがくの如ごときは、
って君子くんしを俟たん。

せき、爾なんじは如何いかん
こたえて曰わく、
れを能くすと曰うに非あらず。
ねがわくは学まなばん。
宗廟そうびょうの事こと、如しくは会同かいどうに、
端章甫たんしょうほして、願ねがわくは小相しょうしょうと為らん。

 次に、現代訳を。   

弟子の子路しろ、曾晳そうせき、冉有ぜんゆう、公西華こうせいかが、
孔子の側に坐っていた。
孔子が以下のように言った。
「私が君たちより、少し、年長だからということで
私に遠慮をすることはない。
常日頃、君たちはいう。『私を知らない』と。
もし、君たちのことを知って(認めて)くれたならば、
何をどのようにするのかね」。
子路しろが出し抜けに、次のように言った。
「兵車千両を出すことのできる国が、
大国の間に挟まれ、
百万人超の軍隊に侵略された後、
飢えと凶作に見舞われたとします。
私、由ゆうが、(その国を)治めたならば、
3年の間には、
勇敢で、且つ、人の道を知る人民にいたします」。
孔子は、子路の言葉に微笑を浮かべた。
「求きゅう、君はどうかね?」(孔子が冉有ぜんゆう)に尋ねた。
冉有ぜんゆうは孔子の問いに、以下のように答えた。
「六七十里四方、あるいは五六十里四方の国を、
私、求きゅうが治めたならば、
3年の内には、
人民の暮らしを充足させましょう。
礼楽については、君子が現れるのを待ちます」。
「赤せき、君はどうかね?」孔子が公西華こうせいか)に尋ねた。
公西華こうせいかは以下のように答えた。
「何かを良くするということではございません。
学びたいと思います。
祖先の祭祀の事、あるいは諸侯の会合に、
黒の礼服と礼冠を着用して、主君の世話役になることを」と。

 続いて、吉川博士の解説を。

・一見して明らかなように、
「論語」の中で最も長い章である。

また孔子のゆたかな、あたたかい性格を示すものとして、
大変有名な章である。

・「子路しろ、曾晳そうせき、冉有ぜんゆう、公西華こうせいか
侍坐じざす」。
かりに孔子七十歳のときとすれば、

子路
六十一歳、曾晳もその年輩、冉有四十一歳、
公西華二十八歳、かく老若とりまぜた弟子が、
孔子をとりかこんで、すわっていた。

・「子曰わく、吾れ一日いちじつなんじに長ぜるを以って、
吾れを以ってする毋き也」。私は君たちより、
少しだけ年かさだが、そのために私に遠慮する必要はない。

「一日爾に長ず」とは、
いうまでもなく、謙遜による誇張である。

・「居れば則ち曰わく、吾れを知らざる也と」。平常諸君は、
口ぐせのように、「われわれは認められない。という。
「居れば則ち曰わく」の「居」の字は、平常を意味する。

・「如し或いは爾なんじを知らば、
すなわち何を以もって
せん哉」。

もしかりに、君たちが世間から認められたとしたら、
どういうことをやりたいか。

・「子路、率爾そつじとして対こたえて曰わく」、
率爾は、あっさり、と訳してよいであろう。
まっさきに答えたのは、例によって気の早い子路であった。

・いわく「千乗せんじょうの国、大国の間に摂はさまれ、
之れに加くおうるに師旅しりょを以ってし、
之に因かさぬるに饑饉ききんを以ってす」。

千乗の国とは、戦車千台と、それに相応した兵士とを、
供出しうるだけの地域をもった、大名のくにである。

ここではそれが、大国の間に摂はさまれ、
というのだから、弱小の国である。

「摂しょうは迫せまる也」、つまり両側の大国から脅威圧迫を
受けている小さな千乗の国、それが軍隊の侵略を受け、
かつ戦争の結果として饑饉をおこしているとしましょう。

「由や之れを為おさむるに、三年に及ぶ比ころおいには、
勇有あらしめ、且つ方みちを知らしむ可べき也」。

私がもし、そうした困難な国の政治を担当したとします
ならば、
三年の間には、勇ましい心情をもつばかりでなく、
正しい人間の生きかたが、わかるように、して見せましょう。

・「夫子之れを哂う」。「哂」の字は、
漢の馬融ばゆうの説を引いて、
「笑う也」とある。

<中略>

・子路の答えに対する笑いがおわると、
孔子は、求、すなわち冉求の答えをうながした。
「求きゅうなんじは如何いかん」。

・「対こたえて曰わく、方ほう六七十、如しくは五六十、
求や之を為おさむるに、
三年に及ぶ比ころおいには、
民をして足ら使む可し、
其の礼楽れいがくの如ごときは、以って君子を俟たん」。

・「六七十華里四方、もしくは五六十華里四方のくに、
つまり東京都より
やや小さいぐらいの面積のくに、
私が、そこの政治の責任者となれば、

三年間には、人民の経済生活を、充足させて見せましょう。

文化生活の法則である礼樂は、さらに有能な君子が、
その事に当たられるのを待つといたしまして。
それが冉有の答えであった。

は「待つ也」と訓ぜられる。
と待たいとは、古代音では近い。

<中略>

・冉有の答えに対し、孔子がどんな反応をしたかは、
記されていない。

そうして、赤すなわち公西華の答えを、次にうながす。
「赤せき、爾なんじは如何いかん」。

・「対こたえて曰わく、之れを能くすと曰うに非ず。
願わくは学ばん焉。

宗廟の事、如しくは会同に、端章甫して、
願わくは小相と為らん焉」。

公西華の答え。
以下のことが、私にうまくできると、はっきりいえるわけでは
ありませんが、勉強して、やってみたいと思います。

宗廟すなわち君主が先祖を祭る廟で行われる行事、
もしくは会同、すなわち大名たちが儀礼として行う定期的な
会合、
その小規模なものが「会」、
大規模なものが「同」であるが、

その場合には、大礼服である「玄端」の上着、
また「章甫」の
冠りをかむって君主の補佐役、

といっても最高の責任者でなく些細な輔佐の役目が
「小相しょうしょう」であるが、
その「小相」をつとめたいと思います。

・宗廟における祭祀は、その国の文化理念の表現であり、
また会合における君主の言語行為は、その君主のくにの
文化能力の表現として、いずれも重視され、

君主が正しく行動するためには、
よい輔佐役が必要であった。

その輔佐役のはしくれをつとめたい、というのが
公西華の抱負であった。

<後略>

 う~ん、
吉川博士は、「率爾は、あっさり、と訳してよいであろう」
とおっしゃる。

じゃあ、『角川新字源(小川環樹・西田太一郎・赤塚 忠 編)には、
どのように記載が? と思い、「卒爾」他、
この章の前半部分の語句を検索してみた結果は以下の通り。

【侍坐】じざ 貴人のそばにすわる。
〔孝経〕「仲尼間居、曾子侍坐」

【一日之長】いちじつのちょう ①少し年齢が多いこと。
〔論・先進〕「以吾一日長乎爾、毋吾以也」

【卒爾】=そつじ【卒然】そつぜん にわかに。不意に。
だしぬけに。
同義語:率爾・率然・倅然そつぜん・猝然そつぜん 

【千乗之国】せんじょうのくに 兵車千両を出すことのできる
諸侯(大名)の国。

【師旅】しりょ 軍隊。五百人を旅といい、五旅を師という。
〔論・先進〕「加之以師旅、因之以饑饉

【知方】ちほう 人の行なうべき道を知る。
〔論・先進〕「可使二有勇、且知一レ方也」

【宗廟】そうびょう ①祖先のみたまや。
②国家。同義語:社稷しゃしょく

【会同】かいどう ①周代、諸侯が天子に拝謁すること。来朝。
②諸侯の寄り合い。③寄り合い。会合。

【端章甫】たんしょうほ 端は玄端の服で、
周代の諸侯が朝勤のとき着る黒色の正しい式服。

章甫は殷いんの礼冠。〔論・先進〕

【小相】しょうしょう 主君が儀式を行なうのを助ける世話役。
小は、けんそんしていうことば。〔論・先進〕

 う~ん、
「師旅」の内容が…?

吉川博士は、「軍隊」といい、
角川新字源』には「軍隊」と、「五百人を旅といい、五旅を師という」。
ならば、「師旅」とは、2,500人の軍隊? 
何万もの兵とは、桁が違うが…。

そこで、『論語新釈(宇野哲人 講談社学術文庫)の[語釈]を見れば、
以下のような掲載が。

〇師旅=軍隊をいう。師は二千五百人。旅は五百人。
ここでは師旅を動かして戦争すること。

 おぉ~、
これならば、1,250,000人の軍隊になる。

そのような視点に立って、『角川新字源』の「師旅」を見れば、
宇野博士の[語釈]と一致する。「やれやれ」

また、「方ほう六七十ろくしちじゅう、如しくは五六十ごろくじゅう」について
吉川博士は、「東京都よりやや小さいぐらいの面積」だとおっしゃる。

角川新字源』の、「周・春秋・戦国時代の度量衡換算表」をみれば、
「里=405m」にて計算結果は「東京都よりやや小さいぐらいの面積」

「やれやれ、ホッ」
としたところで、冒頭の続きを。

 さて、
誰かさんの受け売りか? それとも愚妻の言い分が正解なのか? 
その答えの1つを以下の身近な実例にて。

「フェンスを越えるボール遊び禁止」の掲示板がある公園にて、
就業後にキャッチボールを楽しんでいた2人の社会人が、
公園横の住宅の窓ガラスを割った。そして謝罪と弁償をした。

以来、彼等の姿を当該公園で再び見ることはなかった。

また、休日に、高校生数人が、当該公園にてソフトボールを
愉しんでいた。そのボールが、フェンスを越えて、
公園横の、住宅の窓ガラスを割った。

そして、謝罪と弁償をして、
それ以来、彼らの姿を当該公園にて見かけることはなかった。

 由(ゆう。子路しろ)はいう。

「可使勇、且知一レ方也ゆうあらしめ、かつ、みちをしらしむべきなり
すなわち、「勇ましい心情をもつばかりでなく、
正しい人間の生きかたが、わかるように、して見せましょう」と。

つまり、「正しい人間の生き方が分かるようにする」ためには、
「自らの失敗を糧(基)に(痛い目に遭って)、自ら学ぶ。」
という愚妻派と、

「失敗しないように、耳に胼胝たこができる位、解るまで、
何度も何度も、繰り返し、繰り返し、言え(教えよ)」という
誰かさん派(受け売り派)。

そのどちらが、現代の若者には、理解でき、受け入れられ、
「知方ちほう」、すなわち「人の道を知る」ことが
できるようになるのでしょうか…。

 では、あなたにお伺いします。

あなたは、部下が知方(道を知る)ために、
どんな教育を施しています?

2023年11月12日 (日)

知言(ちげん)

1303043_20231112112001  画像は秋田の友人からの
プレゼントです。

 さて、今を去ること
40数年程も前の、昔の話。

私が、組立配線作業を終えた製品の、
自主検査をしていたときのこと。

動作する筈の製品が、正常に動かない。

さては、誤配線or無線(配線漏れ)かな?
と思い、各部品の配線・接続をチェックするが、
異常は確認できない。

次に、図面(接続図)の間違いかな?
と思い、回路を順に追っていくが、
接続図面も間違い無い。

はて、さて、どうしたかものか?
と、考えあぐねた末に、たどり着いたのが、
某大手メーカーP社の機器不良に違いない!
という確信に。

 早速、代理店の担当者に電話を!
と、歩き始めた矢先に、ばったり、当該担当者が現れた。

で、私は彼に、検査の過程と経緯を説明した後、
次のように。

「原因は、この○○リレーの不良しか考えられない!
今から、裏ブタを剥がして、中の配線をチェックするから
立ち会って欲しい。」と告げた。

すると、当該担当者は、次のようなことを。

「メーカーの製品に手を加えると、返品が出来なくなりますし、
苦情を申し込んでも、相手にしてくれなくなりますので、

メーカーに直接送り返して、調査報告書を要求しますので、
この(現状の)ままの状態で、預からせてください。」と言う。

「ほら、来た!
メーカーに手懐てなずけられた代理店の言い訳が !!!」
と、思った私は、次のように。

「いかん。駄目や!
今までにも何度か、そのように聞いて、
そのまま持って帰ってもらったけど、
こちらが納得のいく答え、報告書を見たことがない。

アンタが、ええ所に来たので、今から裏ブタを剥がすけん、
見とってや。」と私は言い、当該製品の裏ブタを開けた。

開けて、びっくり !!!

本来、半田付けをする端子に、半田付けをした痕跡もなく、
勿論、配線も施されていない。

これには、当該代理店の営業担当者も、
私も、一瞬、開いた口が塞がらなかった。

 その翌日、代理店の担当者が、
P社支店の営業課長Kさんを伴い、私を訪ねてきた。

K課長は、まず、お詫びの言葉を一通り述べた後、
私の怒りが収まった頃合いを見て、
次のようなこと(開き直り?)を。

「○○リレー(不良品)は、自社で製造していないこと位、
既に、ご存知でしょう?」と、苦笑交じりに言う。

「そう、やっぱり。」
と、私は応えた後、次のように。

「受入検査も、全数検査ではなく、抜き取り検査?」
と、尋ねた。

すると、K課長は、「はい、おっしゃる通り、抜き取りです。」
と、観念したかのように答える、というか、答える他なかった。

その答えを聞いた私は、次のような追い打ちを。

「(不良品が)うち(当社)で、出た(発見された)位やから、
他所でもある筈やけどなぁ…(と、聞こえるように独り言をいった後)、

この製品についての不具合や不良品が、
過去に何件ぐらい、出ています?」と尋ねた。

すると、彼は、「いや、今回が、初めてです。」
と、おっしゃる。

で、私は、「そう。じゃあ、帰りに、宝くじを買って帰ろうか。」
と答えた後、次のような思い・考えが、私の頭の中を過った。

「そうか。そんな言い訳があったのか!?
彼、K課長は、『私が本当のことを知りたい』」という
思いや気持ち、その私の本心を、既に、察知しており、
それなりの受け答えをした!?」と、
内心、感心? しながら、次のように続ける。

「そうですね。
この製品は、O社の独擅場どくせんじょうですから、
あまり不良品も出ないかも知れませんねっ。」
と、笑いながら余計な一言を。

 以来、私はメーカーの製品なら大丈夫 !!!
という固定観念を取り払い、
疑いの眼を向けるきっかけになった1つの事例であったが、
同時に、私の心を鷲摑みにしたK課長の言葉・対応でもあった…。

 では、あなたに、お伺いします。

あなたが、観察眼を磨くきっかけになったのは、
誰のどんな言葉や事例でした?

2023年11月 5日 (日)

「知言(ちげん)」解説ページ

1409012  画像は秋田の友人からの
プレゼントです。

 さて、プロ野球日本シリーズをTV観戦しながら、
離れて住む父娘の、ラインでのやりとり。

11月2日(木)の会話。

「もー! 何しよるんっ!
あれはとらないかんやろうー」と娘。

「うん、『今日は絶対勝つ!!』いうて
岡田監督が言うたけん、
選手はプレッシャーかかっとるんよ」と私。

「アレはとらなー!
またハラハラさせられる展開やね…。
守ってもらわな!」と娘。

「要らん事言わんても、
ええのにねっ」と私。

「岡田監督も要らん事言いのお父さんに
言われたないわ」と娘。

「年寄りは要らんこというけん、
嫌われるんやね」と私。

負うた子に教えられて
返した言葉であったが…。

 翌日も、また!

という話の続きは、後段にて。

 先ずは、『論語(吉川幸次郎 中国古典選5 朝日文庫)の中から
抽出した「堯曰ぎょうえつ第二十 第3章」をご覧に。

 最初に、読み下し文を。

わく、
めいを知らざれば、
って君子くんしと為す無き也なり
れいを知らざれば、
って立つ無き也なり
げんを知らざれば、
って人ひとを知る無き也なり

 次に、現代訳を。   

孔子は以下のように述べた。
「天命を知らなければ、
君子とは言えない。
礼儀を知らなければ、
自立することができない。
言葉を知しらなければ、
人を知ることができない」と。

 続いて、吉川博士の解説を。

・全篇の最後であるこの章が、漢代の諸テキストのうち、
「魯論語」の本には無く、「古論語」の本のみにあったという。

また全体として雑駁な堯曰篇の終りに位することは、
この章が、本当に孔子の言葉であるかどうかを、
いよいよ疑わせる。

しかし、にもかかわらず、この章は、
「論語」全体の締めくくりとして、
適切この上もないであろう。

・「命めいを知らざれば、以って君子と為す無き也」。
「命」は、使命とも解され、運命とも解される。

前者ならば人間の活動の原理として、
後者ならば人間の活動を
制約するものとして、
ひとしく天から与えられたものである。

二者は、二にして一、一にしてニである。
それを知らなければ君子たる資格はない。

・古注の孔安国が、「命」とは窮達の分さだめを謂う」と、
運命の意にのみ解するのは、不充分である。

またきびしい封建の世にいた徂徠は、
命とは、天命を受けて、あるいは天子となり、
あるいは公卿となり、あるいは大夫士となること、
というが、
私は賛成しない。

・礼を知らざれば、以って立つ無き也」。
泰伯第八(第8章)の
「子曰、興於詩、立於礼
於楽」が、
ここと最も近い言葉であるが、
ここでは「礼」をもって、文明の行為の代表とする。

人格の確立は、文明の方向と効果とを知らない限り、
あり得ない。

・「言を知らざれば、以って人を知る無き也」。
言語こそは人格の表現である。言語の認識によってこそ、
個人も人間の運命も、認識される。

・徂徠は、この最後の章は、学而第一の最初の章と
首尾相応するのであり、「是れ編輯者の意也」、とする。

いかにも「学んで時に之れを習う」は、
礼を知り、言を知る努力であり、
「人知らずして慍いからず」は、命を知る努力である。

・「子曰」を、「孔子曰」に作る本があり、
日本の本はその方が多い。

編集者が全書の締めくくりとして、この章をおいたとすれば、
「孔子曰」となっている方が、ふさわしく感ぜられる。

 う~ん、
吉川博士は、またまた難解な解説を…、と、私は頭を抱えながら、

角川新字源』(小川環樹・西田太一郎・赤塚 忠 編)には
どのように記載が? と、検索してみた結果は以下の通り。

【三知】さんち ②命(運命)・礼(礼節)・言(言葉の得失)の
三つを知る。〔論・堯曰〕

【知命】ちめい ①天命を知る。天運をさとる。
天のあたえた使命を自覚する。

【知言】ちげん 人のことばを聞いて、その是非善悪を
判断する。〔論・堯曰〕「不言、無以知一レ人也

 あれっ、
この字書には。「知礼」の記載が見当たらない。

そこで、『論語新釈(宇野哲人 講談社学術文庫)の[語釈]を見れば、
以下のような掲載が。

〇命めいを知る=命は運命。ただ知るだけでなく、
これを信じてこれに安んずるのである。命。

〇礼れいを知る=礼を知ってこれを守るのである。
礼は人の履み行うべき一切の規定である。

〇立つ=他物に動かされないで自立すること。

〇言げんを知る=人の言を聴いて
いかなる心から出たかを推知するのである。


三者三様!?

ただし、「命を運命の意にのみ解するのは、不充分である」と、
吉川博士はおっしゃるが、他の博士は「運命」だとおっしゃる。
それでも、私は吉川博士の解釈に手を挙げる。

蛇足ついでに、「礼儀」と「礼節」の違いを『角川新字源』にて、
検索してみた結果は、以下の通り

【礼儀】れいぎ 人が行動において守るべき作法。
礼はそのうちの大きいもの。儀は細かいもの。

【礼節】れいせつ 礼儀のきまり。また礼儀と節度。

また、「知げんをしる」について、
吉川博士は、「言語こそは人格の表現である」とおっしゃり、
宇野博士は「相手の心を推知する」ことだと。

さらに、『角川新字源』を見れば
「言葉の是非善悪を判断する」。
「言葉の得失を知る」ことだと。

んんっ、
「知げんをしる」とは、「言葉の得失を知る」こと?
ならば、昨日(4日)の娘とのラインでのやり取りの中にも。

 11月4日(土)、プロ野球日本シリーズを
TV観戦し終えた(離れて住む)父娘のラインでの会話。

「はい!はい!はい!
次や!次や!
38年ぶりに優勝してもらわな!」と娘。

「うん、そう願いたいんやけどねぇー。
無理かしいぃーそうやねぇー。
オリックスの方が格上みたいやねぇー。」と私。

「ネガティブ―!
言霊!言霊!
まだ結果出てないんやけん、
そんなマイナス感情よりも今年の阪神は違う!
次こそ勝ってくれるはずやー!って気持ちで
過ごした方が、メンタルと身体にもええよ!」と娘。

「うん、そうやねぇ。
せやけど、57年間もタイガースのファンやりよるとわかるんよ。
明日、奇跡が起こることを期待して寝ようわい。
おやすみ。」と私。

「ここまで楽しませてもろうとるんやから、ええやん!
例年にはないことやん! はい、おやすみ。」と娘。

「そうやね。
M子(娘の名)さんのの言う通りやね。
ストレスが溜まるんも明日までやね。
おやすみ。」と私。

 「知言ちげん」、すなわわち、「言(言葉の得失)を知る」、
「言語こそは人格の表現である」し、「相手の心を推知する」
ことだと、私が負うた娘に教えられた昨晩であったが…。

 さて、今夜は!?

 では、あなたにお伺いします。

あなたが、相手の言葉に、気付きを受けたのは
どんな一言でした?

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